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米原万里

米原 万里(よねはら まり、女性、1950年4月29日 - 2006年5月25日)は、日本の、ロシア語同時通訳・エッセイスト・ノンフィクション作家・小説家である。著作には、『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』、『魔女の1ダース』、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、『オリガ・モリソヴナの反語法』などがある。東京都出身。明星学園高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。東京大学大学院露語露文学修士課程修了。日本共産党常任幹部会委員だった衆議院議員・米原昶の娘として東京都中央区の聖路加病院で生まれる。父方の親類に有田芳生がいる。大田区立馬込小学校3年生だった1959年(昭和34年)、父が日本共産党代表として各国共産党の理論情報誌 『平和と社会主義の諸問題』編集委員に選任され、編集局のあるチェコスロバキアの首都プラハに赴任することとなり、一家揃って渡欧した。9歳から14歳まで少女時代の5年間、現地にあるソビエト連邦外務省が直接運営する外国共産党幹部子弟専用の8年制ソビエト大使館付属学校に通い、ロシア語で授業を受けた。チェコ語による教育ではなくソビエト学校を選択したのは、ロシア語ならば帰国後も続けられるという理由だった。ソビエト学校は、ほぼ50カ国の子供達が通い、教師はソ連本国から派遣され、教科書も本国から送られたものを用いる本格的なカリキュラムを組んでいたという。クラスの人数は20人を越えると二つに分けるなど、きめ細かい教育だったが、最初の約半年間は、教師や生徒が笑っていても言葉がわからず、「先生の話すことが100パーセント分からない授業に出席し続けるのは地獄」だったと述懐している。1964年(昭和39年)11月、ソビエト大使館付属学校を第7学年で中退し日本に帰国。1965年1月、大田区立貝塚中学校第2学年編入。日本の試験が○×式あるいは選択式であることにカルチャーショックを受けた。ソビエト学校はすべて論述試験だったからである。プラハの春(1968年)が起こったのは日本へ戻った後の、18歳のときだった。1966年4月、明星学園高等学校入学、1969年3月に卒業。同年4月、榊原舞踊学園民族舞踊科入学。1971年3月に同校を中退し、同年4月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科に入学、この頃に日本共産党入党。1975年3月に同大を卒業し、同年4月、汐文社に入社。1976年3月、同社を退社し、同年4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程に進学。1978年3月、同修士課程修了。が、死亡時『しんぶん赤旗』訃報欄には、党歴無記載ではあるが掲載された。後年(2002年5月13日)、逮捕直前の佐藤優に米原は「私は共産党に査問されたことがある。あのときは殺されるんじゃないかとほんとうに怖かったわ。共産党も外務省も組織は一緒よ」と語っている。また、日本共産党から離れた後「今の社会の仕組みや矛盾を説明するのに、カール・マルクスほどぴったりな人はいないわよ。絶対的とは言わないけれど、今読むことのできる思想家の中では、あれほど普遍的に世の中の仕組みや矛盾をきちんと説明できる思想家は他にいない」とたびたび語っていた。日ソ学院(現在の東京ロシア語学院)ロシア語講師、また1990年まで文化学院大学部教員としてロシア語を教える。かたわら1978年頃より通訳・翻訳に従事、1980年ロシア語通訳協会の設立に参画し、初代事務局長となる。TBSのテレビ番組『シベリア大紀行』という番組で、厳寒期の平均気温がマイナス60度になるヤクーツクを取材し、厳冬期のシベリアを一万キロにわたり横断。この経緯をテレビ番組のみならず、児童向けの『マイナス50℃の世界 寒極の生活』(1986年)として著した。1983年(昭和58年)頃から第一級の通訳として、ロシア語圏要人の同時通訳などで活躍。特にペレストロイカ以降は、ニュースを中心に旧ソ連・ロシア関係の報道や会議の同時通訳に従事する。1989年から1990年まで、TBS「宇宙プロジェクト」で通訳グループの中心となり、ソ連側との交渉にあたる。TBSの特別番組「日本人初!宇宙へ」ではロシア語の同時通訳を担当。こうした活躍が同時通訳、ひいては米原の存在を一般に広く知らしめることになった。1990年1月、エリツィン・ソ連最高会議議員(当時)来日にあたって、随行通訳を務める。エリツィンからは「マリ」と呼ばれ、大変可愛がられていた。1992年(平成4年)には同時通訳による報道の速報性への貢献を評価され、日本女性放送者懇談会賞(SJ賞)受賞。1995年から1997年まで、さらに2003年から2006年の死去まで、ロシア語通訳協会会長を務める。また同時通訳の待遇改善にも尽力した。1997年(平成9年)4月から翌年3月まで、NHK教育テレビ『ロシア語会話』で講師を務める。1995年(平成7年)に『不実な美女か貞淑な醜女か』(1994年)で読売文学賞を、1997年(平成9年)に『魔女の1ダース』(1996年)で講談社エッセイ賞をそれぞれ受賞。1980年代後半以降、東欧の共産主義政権の没落やベルリンの壁崩壊さらにはソ連の崩壊を、通訳業の現場にいて肌で感じ、プラハのソビエト学校時代の友人たちの消息が気になっていた。親しかったギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ボスニアのボシュニャク人のヤースナの級友3人を探し歩き、消息を確かめた記録『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。選考委員の西木正明は、「恐ろしい作品。書き飛ばしているのに、それが弊害になっていない。人間デッサンを一瞬に通り過ぎながら、人物が行間からくっきり立ち上がってくる。嫉妬に駆られるような見事な描写力だ」、と評価している。2003年(平成15年)には、長編小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年)で、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。選考委員を務めた池澤夏樹は、若い夢とイノセンスの喪失を語りながら、暗い社会の中、老女オリガ・モリソヴナの躍動感で「子供たちはその光を受けて輝」いていると述べ、「ある天才的な踊り子の数奇な運命を辿ると同時に、ソ連という実に奇妙な国の実態を描く小説であって、この二重性が実におもしろい」、と評価した。晩年は、肉体的にも精神的にも負担の多い同時通訳からは身を引いて作家業に専念した。またTBSのテレビ番組『ブロードキャスター』にコメンテーターとして出演していた。2003年10月、卵巣嚢腫の診断を受け内視鏡で摘出手術すると、嚢腫と思われたものが卵巣癌であり、転移の疑いがあると診断される。近藤誠の影響を受けていた米原は開腹手術による摘出、抗癌剤投与、放射線治療を拒否し、いわゆる民間療法にて免疫賦活などを行う。1年4ヶ月後には左鼠径部リンパ節への転移が判明し、手術を提案されるが拒否。温熱療法などを試みる。闘病の経緯は米原の著書『打ちのめされるようなすごい本』に掲載されている。2006年(平成18年)5月25日に神奈川県鎌倉市の自宅で死去したことが同29日に報道された。享年56、戒名「浄慈院露香妙薫大姉」。死亡時には週刊誌、『サンデー毎日』で『発明マニア』を、『週刊文春』で『私の読書日記』を、それぞれ連載中であった。また、生前最後の著作は『必笑小咄のテクニック』(2005年)となった。死亡後の7月7日には、日本記者クラブにて「米原万里さんを送る会(送る集い)」が行われた。下ネタをこよなく愛することで有名。徹子の部屋に出演した際、黒柳徹子が米原の著書『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に出てくる瞳孔に関する有名な下ネタを紹介したため、視聴者に衝撃を与えた。その他の趣味は駄洒落、そして犬や猫と暮らすこと。親しい友人のイタリア語同時通訳者の田丸公美子も駄洒落と下ネタが得意で、米原は田丸に自分の渾名「シモネッタ・ドッジ」なる称号を献上、田丸は米原を「え勝手リーナ」(エカテリーナ)と呼んでいた。佐藤は「文藝春秋」2008年9月特別号において、米原に橋本龍太郎から関係を迫られたと聞いたとする記事を掲載した。米原は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。この記事はのちに『インテリジェンス人間論』にも掲載された。掲載時に両者とも故人だったためコメントは得られていない。父親は衆議院議員の米原昶、祖父は鳥取県議会議長、貴族院議員、鳥取商工会議所会頭などを務めた米原章三。実妹のユリは作家・戯曲家の井上ひさしの妻である。万里は死亡時まで、井上が会長を務める日本ペンクラブの常務理事であった。

出典:wikipedia

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