『世界』(せかい)とは、岩波書店が発行している総合雑誌である。1945年12月創刊。「日本唯一のクオリティマガジン」を標榜している。初代編集長は、『君たちはどう生きるか』の著者である吉野源三郎。最高責任者には岩波書店創業者岩波茂雄の親友であった安倍能成を擁した。安江良介(後の岩波書店社長であり、革新知事の美濃部亮吉の下で都知事特別秘書を務めた)も長きにわたって編集長を務めた。創刊号の発売日には岩波書店小売部に行列ができたこともあり、当時の編集長吉野源三郎は1946年9月号の編集後記で、全国の小売店からの注文は28万部あったが発行部数は8万部で全く注文に応えられていなかった状況を説明している。しかし、創刊から数年で発行部数は落ち、1951年頃は3万部程度であった。毎日新聞の全国読書世論調査のランキングでは、世界は同じ総合雑誌の中央公論(最大実売数14万部)に3~41位程度差を付けられており(1947年、1948年を除く)、購読者数や読者数はかなり差を付けられていた。岩波茂雄は玄洋社の総帥、頭山満に心酔しており、その正伝も岩波書店から出版する予定だったほどで、『世界』も、心あるインテリ路線を目指し、安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎らオールド・リベラリストが執筆する自由主義的な文化雑誌として創刊した。しかし岩波は1946年4月に没した。そして「歴史教科書問題」「沖縄戦」など特定のテーマを扱う「世界臨時増刊号」や「別冊世界」も不定期発行される。拉致問題については、北朝鮮に対する報道姿勢は冷静に臨むとの旨を宣言している 。1973年から1988年までの長期間、T・K生という韓国在住を装った匿名の筆者によるレポート『韓国からの通信』が連載され、後に岩波新書で一部がまとめられたが、途中(第4巻『軍政と受難―』)で単行本化は中止された。その理由について現在まで岩波書店は明解な説明をしていないため、様々な臆測がなされている。筆者の正体も長い間謎とされ、一時は当時の安江編集長が韓国人を騙って書いていたのではないかとも推測がされていたが、2003年になり、当時東京女子大学教授として日本滞在中だった池明観がT・K生であったと公表している(安江の関与もみとめている)。韓相一は著書『知識人の傲慢と偏見』で、『世界』に書かれた北朝鮮、韓国の記事は金日成の宣伝と韓国の圧政の批判に終始しており「韓・日両民族の和解にとって少しも助けにはならなかった」と批判している。『世界』は、70年代から80年代にかけて金日成の宣伝のためにインタビュー記事を掲載して北朝鮮の体制を支持していたが、韓国に対しては近代化の問題点や軍事政権による圧政を問題とする記事を掲載して韓国の体制を執拗に批判しており、このような編集方針は日本の左派知識人の『実体と経験に全く根拠を置かないまま「北朝鮮=善」という単純な論理をそのまま表に出していた』のであり、彼らの「虚勢と自己欺瞞」であると強く批判している。重村智計は、世界は1984年まで韓国に対して南朝鮮の表記を続けた。世界に寄稿した学者や研究者の多くが、南朝鮮の表記に従った。この韓国を存在しない国として扱い、北朝鮮批判の論文を掲載しなかった。これらが、日本での朝鮮問題研究をいびつにし、拉致問題から国民の目をそらせた責任は大きい。また、北朝鮮が日本人拉致を認める直前まで「拉致はない」との論文を掲載し続けた、と指摘している。高橋源一郎は『世界』が世論をミスリードした原因を検証する企画を「世界の罪」として提案した。しかしその企画が編集者から一笑に付されたことを高橋から聞いた内田樹は「一笑に付したほうが知的な意味では恥ずかしい」と指摘している。辻村明や竹内洋は『朝日新聞』の論壇時評が『世界』掲載論文をいかに多く取り上げ、しかもそのほとんど全てが好意的に取り上げられたかについて指摘している。藤岡信勝は『世界』を「化石化した雑誌」と評している。
出典:wikipedia
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