


煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - 没年不明)は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。盛岡商業(現・岩手県立盛岡商業高等学校)在学中は、の甲子園東北大会決勝で、東北中学を相手に猛打を振るい語り草となった(試合自体は敗れ、甲子園出場は成らなかった)。卒業後は、日本大学、仙台鉄道局(現・JR東日本東北硬式野球部)でプレーした。春、大東京軍に入団。岩手県出身者としては初のプロ野球選手となった。1937年5月1日の名古屋戦(洲崎球場)で一塁手の守備(浅原直人の代役)としてデビュー。5月8日の金鯱戦(上井草球場)ではプロ初打席初安打をマークし、6月1日の金鯱戦(甲子園球場)では初ホームランを打つなど、前評判通りの打棒を見せ、1937年春季シーズンはレギュラーとして定着した(規定打席にも到達し26位だった)。しかし、打撃とは裏腹に守備は拙く、1937年5月9日の金鯱戦(上井草球場)では3つの失策を犯し、それらが全て失点に結びついてチームが敗戦した事もあった。1937年春季は36試合出場で5失策、1937年秋季は29試合出場で6失策している。春季シーズン終了後、現役引退した。プロ野球界きっての珍名として有名であり、煤 孫伝(ばい そんでん)と読まれて、台湾からの帰化選手と間違われた事もあったと伝わる。ちなみに、先祖は北上の和賀氏家臣で、煤孫という地名が残っている。また『新プロ野球人国記』(大道文・著)によると、東京都内に「欠端」(かけはた)は13世帯あるが、「煤孫」は3世帯しかないと記されている。
出典:wikipedia
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