武射郡(むさぐん)は、千葉県(上総国)にあった郡。本来はむさと読み、江戸時代頃からむしゃという読み方が慣用化したとされるが、明治13年(1880年)の「郡区町村一覧」ではむさと訓じている。武社国造の領域を中心に編成された。『大日本地名辞書』「上総国」では、「されば山辺武射は上総の管内とするも、地形は全く下総に入り、房総半島に係らずと知るべし」としているが、『日本古代史地名事典』「武射郡」には、「当郡が上総国に組み込まれているのは、それなりの歴史的、地理的な理由があり、本拠とした武社国造は、『古事記』孝昭天皇の段によると牟邪臣という氏姓を帯び、『先代旧事本紀』「国造本紀」に和珥氏と同じく孝昭天皇の後裔と称しており、東国の国造で臣というカバネを有し和珥氏と同祖と称するのはめずらしい」とある。また隣接する山辺郡は、「大和国の山辺郡と無関係ではない」ともある。なお、『千葉県の歴史』「千葉と房総三国の名の由来」は上総と下総の位置関係について、『古語拾遺』の天富命による開拓のことを載せ、「黒潮に乗って西国からの移住や開拓が、外房側から進められたため」とする。『万葉集』巻二十 防人歌には、当郡出身の丈部山代の詠んだ「よそにのみ 見てや渡らも 難波潟 雲居に見ゆる 島ならなくに」が載せられている。また、『続日本紀』神護景雲3年(769年)3月13日の条で武射臣を与えられた陸奥国牡鹿郡の春日部奥麻呂らは、本来当郡に居住した一族で蝦夷征討に伴い移動したものとみられている。春日氏も武社国造と同じく和珥氏と同祖とされていることから当郡と無関係ではない。平安時代、上総介に任じられた平高望が屋形を置き、高望の子良兼は、当郡を本拠として甥であり聟でもある将門と争った。源頼朝に呼応した千葉氏により下総目代が討たれた際には、藤原親政が千葉荘を攻めるにあたって当郡を通っている(結城浜の戦い)。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。
出典:wikipedia
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