非武装中立(ひぶそうちゅうりつ)とは、国家や集団などの安全保障の考え方の1つであり、自衛を含めた軍備を放棄して、中立主義を行うものである。非武装中立には、戦時のみのものや、平時を含むものが考えられる。通常は、平時を含めて自衛戦争のための常備軍も廃止し、特定の軍事同盟にも加盟しないものとされる場合が多い。非武装中立の思想は、平和主義や、ガンディー、キング牧師などの非暴力主義、あるいは国際社会への信頼などに基づき、それを国家レベルや平時にも拡大したものとも言える。非武装中立政策は、世界的にはヨーロッパの小国などで採用された例があるが、一時的または限定的にとどまっている。日本では第二次世界大戦の反省と、戦後の日本国憲法第9条や東西冷戦の関連もあり、日本社会党などにより主張された。なお非武装中立とは国家レベルの政策であり、必ずしも国家レベル以外の軍備や自衛戦争を全て否定するものとは限らない。国際連合憲章では、国際の平和と安全を維持または回復するために、常設および非常設の国連軍を認めており、仮に侵攻を受けた場合に非暴力の抵抗を続けながら国連軍の救援を待つ事は考えられる。ただし2015年現在でも常設の国連軍は組織された事が無い(このため自衛隊の指揮権を国連に移管し、常設の国連軍とする意見も存在する。ただしその場合は、任務が日本防衛のみとなるとは限らない)。また国連軍は安保理の常任理事国が拒否権を発動すれば行動できないため、仮に常任理事国自身や常任理事国が支持する国から侵攻を受けた場合には、事実上期待できない。また、軍備の有無にかかわらず国家の自衛権自体は国際法上存在しているため、侵攻を受けた以後に民兵や義勇軍を組織することも考えられる。ただし急造の武装組織の近代戦での有効性は疑問であり、日本国憲法においても何ら規定されておらず、捕虜などの戦時国際法上の保護も課題となる。非武装中立論は、ヨーロッパでも社会防衛論として、軍事による国土防衛を放棄し、自国が外国軍隊によって占領されたとしても、他の手段(デモ、座り込み、ボイコット、非協力等)によって他国からの領土支配を拒絶するとする政策論が存在する。バチカンは、ラテラノ条約によって国家としてのバチカン市国が成立し、対外的に永世中立を宣言した後は非武装中立を行っていると言える。スイス傭兵を抱えてはいるがあくまで儀礼的なものであり、唯一国境を接するイタリアとの関係も良好である。しかしローマ教皇のような特別な権威を持つという性質を、他の国が模倣することは極めて困難である。太平洋にはツバルやバヌアツといった非武装で、非同盟政策を掲げる国はあるが、いかなる紛争に対してもの中立を宣言しているわけではない。明確に非武装中立を宣言した国にはコスタリカが挙げられる。1983年に永世非武装中立を大統領が宣言している。ただしコスタリカは常備軍の設置を禁止しているだけで、非常事態には徴兵制を敷き軍隊を組織することができる。コスタリカ共和国憲法第12条には「大陸間協定により若しくは国防のためにのみ、軍隊を組織することができる。」としている。また国家警備隊及び地方警備隊が、重火器等を保持し、隣国ニカラグアの軍事費の三倍(2005年 日本外務省のデータ)を得ていることや、米軍のグリーンベレーによる軍事訓練を受けていたこともあるなど、国防軍的要素が備わった武装組織となっており、純粋な非武装とは呼びがたい。また中立という面では、安全保障をアメリカ合衆国に依存しており、さらに米州機構のメンバーでもあり、1965年に起きたドミニカ内戦の際には米州平和維持軍の一員としてドミニカ共和国の立憲派政権を転覆させるために、ラテンアメリカの反共国家の軍隊と共に武装警察を派兵したこともあり、イラク戦争においても有志連合の支援国となった。またコスタリカの警備隊は1999年に結ばれたアメリカとの麻薬取締協定に基づき、米軍とともに大西洋・太平洋で共同パトロールを行ってきた。その拠点としてココ島に限定して米軍に駐在を認めてきたが、2010年7月にコスタリカ議会は、米軍のコスタリカ国内における自由な移動の許可と、46の軍艦、200の戦闘機とヘリコプター、7000人の海兵隊員の派兵を受け入れることを賛成可決で決定した。このような状況からも、国際的には中立国として認められない。また、非武装中立のみによって戦争の被害を完全に免れえる訳ではない。ルクセンブルクは1867年の建国時より、非武装政策の永世中立国であり、現在でも憲法では中立国であると規定している。しかし第一次世界大戦・第二次世界大戦ではドイツがフランスへのより安全な侵攻ルートを確保するため、シュリーフェン・プラン及びマンシュタイン・プランに基づいてルクセンブルクとベルギーの中立を一方的に侵犯して両国を武力占領した。このためルクセンブルクは、第二次世界大戦後の1949年にNATOに加盟し、徴兵制度を採用(1968年に志願制に移行)、永世中立および非武装政策を事実上放棄した。バチカンやサンマリノも第二次世界大戦中には非武装中立の立場を取ったが、空襲や占領による被害を受けている。また戦争に至らない事例でもソロモン諸島は内乱を沈静化できず、太平洋諸島フォーラム諸国に多国籍軍の派兵を要請する事態が起きている。2011年現在、政権与党として非武装中立を掲げる政党としてはキプロス共和国の労働人民進歩党があるが、同党の非武装中立の理念は現在のところ実効化はしておらず、キプロス共和国の国軍であるキプロス国家防衛隊()は未だに健在である。日本の非武装中立論者は、日本国憲法の前文と第9条を根拠に自衛隊と在日米軍の存在が憲法違反だと主張している。そして日本の安全保障政策として、自衛隊の廃止と、在日米軍を肯定する日米安全保障条約の廃止を主張している。現在の日本の政党では護憲(自衛隊違憲)・非武装を党是としている社民党がある。また護憲団体として「9条の会」「9条ネット」がおり、日本国憲法9条の理念を国際的に広める活動をしており、現時点では自衛隊などの防衛力を容認しつつ最終的には軍備の永久放棄を視野に入れている。非武装中立論者には護憲派が多く、自衛隊や在日米軍の存在を明白に肯定するための第9条の改定に強く反対している。かつて、1979年に森嶋通夫LSE教授(当時)が独自の理論による非武装中立論を発表し、翌1980年には、日本社会党の石橋政嗣委員長(当時)も自著の中で「非武装中立論」を展開した。終戦後の占領開始当初における米国の対日戦略は「日本を中立・非武装化して中国(中華民国)をアジアの拠点とすること」であったが、一方で日本の民主化・非軍事化が達成されれば米軍を早期に撤退させる方針でもあった。しかし中国大陸では国共内戦において民国を主導する中国国民党は完敗を喫し、台湾島などを除く中国本土には中国共産党一党独裁の中華人民共和国が成立した。さらには朝鮮戦争の勃発・激化をも経験した米国は、日本を「反共の砦」と位置づけ再軍備を認める一方で、在日米軍の駐留を継続する。これが「冷戦」発生後のいわゆる「逆コース」である。第9条改定反対派のすべてが非武装中立論の立場に立っているわけではなく、例えば河野洋平など自民党内の護憲派は、自衛隊の存在は容認している。また、日本共産党や新左翼各派は、現状の日米安保条約体制に基づく自衛隊や在日米軍には反対だが、国家の軍備そのものを否定しているわけではない。特に日本共産党は、1946年の日本人民共和国憲法草案でも侵略戦争は不支持としているが、これは不戦条約と同等であり、戦争や軍備自体を否定した条項はない。また日本国憲法制定時の採決では「自衛戦争の否定」などに反対し、反対票を投じている。2009年に内閣府が実施した調査によれば、「日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止すべき」とした回答者は全体の4.2%だった。非武装中立に対する、次のような批判や指摘がある。なお、戦後日本の非武装中立論の形成に大きな役割を果たした、社会党左派系の社会主義協会に属した山川均の非武装中立論は、永世非武装国家を志向したものではなかった。山川は日本が復興する間のみでの非武装(復興時非武装中立論)を説いただけで、ソ連の脅威を十分に認識した上での将来的な武装を認めていた。軍備偏重であった戦前の社会を反省し、社会資本を復興に集中するねらいがあったとみられている。また、社会主義協会の代表で社会党顧問であった向坂逸郎は1977年に『諸君!』(1977年7月号)のインタビューで、「日本が社会主義国家になれば、帝国主義と戦い社会主義を守るために軍備を持つのは当然」と語っている。向坂の主張は理論上は自然なもので、党の看板政策を「政権を取るまでの方便」同然とみなした発言にもかかわらず向坂は社会党から何の処分も受けていない。
出典:wikipedia
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