立川流(たちかわりゅう)は日本密教の真言宗の一法流である。真言立川流(しんごんたちかわりゅう)とも。通説では平安末期の仁寛(生年不詳-1114)が流祖とされ、南北朝期に文観(1278-1357)によって大成されたと伝えられる。宥快らによって邪教とされ、立川流の典籍は焼き捨てられた。そのため伝存する資料が少なく、実態は不明である。宥快の『宝鏡鈔』(14世紀)は男女陰陽の道を即身成仏の秘術としているとして立川流を指弾し、男女交合を説いたことが一般に立川流の特徴とされている。ただし櫛田良洪は、遺された立川流の印信を調べてもそのような教義を窺知させるところは見出せないと指摘しており、ステフェン・ケック (Stephen Köck) の研究では、通説に反して立川流の実態は真言宗の他の流派と大きく異なるものではなかったとの見解が提出されている。鎌倉時代の心定は著書『受法用心集』(13世紀)において、髑髏を本尊とする特異な法について解説しており、同書は立川流を批判した書とされている。いわゆる立川流の教義における所依の経典類は、心定の『受法用心集』によると、『瑜祇経』(金剛智 訳:大正蔵№867)、『理趣経』(不空 訳:大正蔵№243)、『宝篋印経』(不空 訳:大正蔵№1022A・B)、『菩提心論』(不空 訳:大正蔵№1665)の「三経一論」である。仁寛や文観に見られる立川流の源流は、依経である『宝篋印経』等の三経に基づき本尊を立てる。文観の著作である『三尊合行秘次第』(1338年頃)によると、「如意宝珠」を中心として左右に「不動明王」と「愛染明王」を配し、この三尊を本尊として祀る。また、この両明王を合一させた「両頭愛染明王」(りょうずあいぜんみょうおう)を祀ることもある。ここで挙げた「如意宝珠」とは、真言密教の秘密本尊の一つである『密観宝珠』(みっかんほうじゅ)のことを指している。なお、真言密教においてこの『密観宝珠』と呼ばれる本尊には建立のための特別な条件や形式があり、単に如意宝珠や宝篋印塔を祀ったり、持物(じもつ)として如意宝珠を持つ尊格を祀るものを『密観宝珠』と呼ぶことはない。「如意宝珠」を立てるのは、先の『宝篋印経』によるものであり、「愛染明王」を立てるのは、依経の『瑜祇経』によるものである。『瑜祇経』では「愛染明王」について、「三世の三界の中にあって、他の一切が誰もこの尊(愛染明王)を越えることができないので、この尊の名前は金剛の王とされ、『金剛頂経』の中で最勝の名前であり、教主である金剛薩埵がこの尊を定めて、一切諸仏の母とした」と讃えられていて、これに基づいて愛染明王を『金剛頂経』十八部における最高の明王とするところから、これと併せて真言密教で『大日経』における最高の明王として挙げる「不動明王」を採用し、真言宗の『理趣経』に代表される金胎不二(こんたいふに)を旨として、「愛染明王」と「不動明王」両尊を祀るものである。そして、この金胎不二の理念をより具現化させたものが「両頭愛染明王」となる。立川流を継いだとする越前国豊原寺誓願房心定の『受法用心集』(1272年)には、「髑髏本尊」について以下のように解説されている。こうしてできた本尊を壇に据え、山海の珍味を供えて昼夜祀り養うこと八年にして「髑髏本尊」は成就の程度に応じて験力を顕すという。下品に成就した者にはあらゆる望みをかなえさせ、中品には夢でお告げを与え、上品には言葉を発して三世〔過去・現在・未来〕のことを語るという。しかし、立川流の本流におけるこの儀式の奥には別の真実が隠れているという説がある。立川流の本流では、独自の見解として『理趣経』には本来、男性と女性の「陰陽」があって初めて物事が成ると説いている。また、この儀式に8年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的だからであり、そうなればもはや髑髏本尊など必要なくなってしまう。立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。この点において、「女性は穢れた存在であり、仏にはなれない」と説いていた既存の宗派と異なる。かっての東密では金剛杵として、古法の「如意宝珠法」や「愛染王法」、「両頭愛染法」(りょうずあいぜんほう)において、特殊な金剛杵である割五鈷杵(わりごこしょ)を用いることがあった。これは一般的な五鈷杵を縦に二つに割って片方づつが五つの山からなる刃で構成され、愛染明王を説く『瑜祇経』には「五山杵」(ごさんのしょ)とあるところから、別名を「瑜祇杵」(ゆぎしょ)ともいう。本来は、中心に貴重な「仏舎利」を入れて用いることを目的とする法具である。その両端の片方が三鈷杵、もう片方が二鈷杵になっているので人形(ひとがた)にも見えることから、立川流ではこの金剛杵を好んで用いたとされ、流派独自の命名でその名を「人形杵」(にんぎようしょ)と呼んでいた。その後は、立川流の弾圧に伴い誤解を受けてこの法具も姿を消し、現在、博物館などに文化財として少数が残る他は、好事家に珍重されるか「唐密」の古法の一部で知られる以外は、一般に用いられることはない。なお、立川流の本流における教義は、日本の陰陽道の教えを取り入れ、「陰陽」の二道により真言密教の教理を独自に発展させたもので、男女交合の体験を即身成仏の境地と見なし、男女交合の姿を曼荼羅として図現したものである。しかし、髑髏を本尊とするなどの儀式に関しては、あくまでも俗説であって、立川流の秘儀や作法などが述べられた文献はほとんど焚書で亡失しており、立川流に性愛教義があったとする主要な論拠はこの流派を邪流として非難した側の文書にあるため、それが真実かどうかはわからない。立川流の本流において男女交合の体験、すなわちオーガズムが即身成仏の境地であると曲解されるに至ったのにはいくつかの理由がある。密教では、人間はそもそも汚れたものではないという、自性清浄(如来蔵思想)という考えがあり、『理趣経』の原文には、「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)」、「欲箭清浄句是菩薩位(よくせんせいせいくしほさい)」、「適悦清浄句是菩薩位(てきえつせいせいくしほさい)」などとあり、そこには性行為を含めて、仏や菩薩の境地に至ったならば、人間の営みはすべて本来は清浄なものであると『十七清浄句』に説かれていることに起因すると考えられている。また立川流が東密(真言密教)の流れを汲む邪宗とされるのに対し、台密(天台宗の密教)でも玄旨帰命壇という口伝相承に愛欲を肯定する傾向が生じたとされることから、この二つはよく対比して論じられることが多い。立川流は平安時代末期に密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代に後醍醐天皇の護持僧となった文観によって大成されたと言われる。1113年(永久元年)、後三条天皇の第3皇子・輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を図って失敗し(永久の変)、11月に伊豆の大仁へ流された。名を蓮念と改め、この地で真言の教えを説いていた仁寛は、武蔵国立川(たちかわ)出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。ほかに観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、かれらに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。1114年(永久2年)3月に仁寛が城山(じょうやま)から投身自殺を遂げたのちは、見蓮らが陰陽道と真言密教の教義を混合して立川流を確立し、布教したとされる。鎌倉には、京都から放逐された天王寺真慶らによって伝えられた。その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』では、辺鄙な地方で真言師と聞こえのある輩の9割が内三部経の所説である女犯肉食を密教の要諦だと信じていると記されている。鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は文観を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇は隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者にまで上り詰めた。これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。後南朝が衰退した後、高野山の宥快による弾圧からその後の影響もあり、安土桃山時代には立川流も徐々に勢力を失い、江戸時代には断絶した。いわゆる立川流と呼ぶことのできる教義や事相を持つ源流や本流の正嫡は、現在は伝わっていないというのが定説である。しかし、その独特の教義は『太平記』や、好事家向けの浮世絵と風俗本に多くの資料や影響を残している。立川流の成立や「血脈」(けちみゃく)と呼ばれる相承の系譜、その流派の歴史については、多くの識者が疑義を呈している。以上のような疑問のほか、仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、かれらと立川流との関係を疑問視する向きもある。しかしながら、ほとんどの記録が失われた現在では、多くの疑問点が未だ真相不明のまま残されている。現在残っている資料として『宝鏡鈔』、『立河聖教目録』といった文献があるが、これらは立川流を敵視する立場から書かれたものである。
出典:wikipedia
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