


生田 万(いくた よろず、享和元年(1801年) - 天保8年6月1日(1837年7月3日))は、江戸時代後期の国学者。名は国秀、字は救卿、号に東華、大中道人。享和元年(1801年)、上野国館林藩の藩士の家に生まれる。藩校で儒学を学び、江戸で平田篤胤に入門して国学を学ぶ。太田で私塾を開くが、進言した藩政改革論を退けられ、天保7年(1836年)に越後国柏崎へ移り、桜園塾を開く。天保の大飢饉の発生にともない、天保8年(1837年)2月に大坂で大塩平八郎らが救民を掲げて武装蜂起(大塩平八郎の乱)すると、各地で呼応する一揆や武装蜂起が起こった。これに影響を受けた生田も同年6月に数名の同志を集めて蜂起(生田万の乱)。平田の門人ながら、蜂起の際には「大塩門人」を自称したという。一行は桑名藩の柏崎代官所を襲撃するが、負傷して自刃した。享年37。なお、妻と2人の幼い子供も自害した。著作に藩政改革論である『岩にむす苔』、『古易大象経伝』。撰述に「古学千字文」がある。
出典:wikipedia
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