坊津町(ぼうのつちょう)は、鹿児島県の南部にあった町で、川辺郡に属した。1889年に町村制が施行されたのに伴い南方郷(外城)のうち明治2年以前の久志秋目郷及び坊泊郷にあたる4村の区域より西南方村(にしみなみかたむら)として発足し、1953年10月15日に坊津村に改称、1955年11月1日に町制施行。2005年11月7日、加世田市・大浦町・笠沙町・金峰町と合併して南さつま市となり、自治体としては消滅した。薩摩半島の南端に位置し、東シナ海に面する。リアス式海岸が続く。1889年の町村制施行に伴い、それまでの久志村、秋目村、坊村、泊村の区域より西南方村(にしみなみかたむら)が成立し、それまでの村は西南方村の大字となった(1953年の村名改称、1955年の町制施行時も同様)。2005年に加世田市等1市4町の新設合併により設置された南さつま市となり、合併協議会により「現行の町名を現行の大字に冠したものとする。」とされ、従来の大字名に自治体名である坊津町を冠称したものを大字名とすることなり、合併時に久志は坊津町久志、秋目は坊津町秋目、坊は坊津町坊、泊は坊津町泊にそれぞれ改称された。坊津は古代から海上交通の要地として栄え、奈良時代には鑑真が現在の町域の一部である秋妻屋浦(現・秋目地区)に上陸した。中世には島津氏の統治下にあり、中国(明)・琉球との貿易により栄え、倭寇や遣明船の寄港地でもあった。『武備志』には安濃津(現在の三重県津市)、博多津(現在の福岡市の一部)と並ぶ主要港として記されている。安濃津・博多津・坊津を「日本三津」(津とは港の意味)という。平安時代末期には近衞家の荘園となる。江戸時代、長崎が主要貿易港となった後も、歴代藩主や調所広郷などに重用され薩摩藩の密貿易(清や琉球との中継貿易)の地として引き続き栄えたが、江戸幕府による密貿易の取締りにより衰退したといわれる。その後明治から昭和にかけては、鰹漁業や鰹製造の一大集積地として隆盛を誇った。特に昭和初年に隣りの枕崎市に近代的な築港が完成するまではこちらが大きな力があり、その当時は今では考えられない程の多くの人が行きかっていた。坊津は単に港町という側面だけではなく、時の文化や権力やそれに係わる最先端の人たちが行き交う場でもあった。鹿児島城下の直轄地であった坊津には。歴代の薩摩藩主が交代する度に当地へ御出座しがあり、島津家と縁戚関係の近衞家17代近衞信尹が一時期、京から追放された際の流刑の地にされたりもした。また映画や小説の舞台にもなった。歴史や風光明媚な土地柄に惹かれて、明治以後は谷崎潤一郎をはじめ時代の名立たる文豪の多くが好んで訪問し、梅崎春生の小説『桜島』などでは、作中の舞台の一つとなった。またイギリス映画の『007は二度死ぬ』の日本ロケの一部は当地の秋目海岸でロケが行われ、ショーン・コネリー扮するジェームス・ボンドや地元の海女役の浜美枝と落ち合うシーンなどが撮影されたことなどはファンに良く知られていることでもある(跡には現在、出演者のサインが刻まれた記念碑が建立されている)。下記の他、1948年から1963年まで坊津町立坊津高等学校が、1948年から1979年まで玉川学園久志高等学校が町内に所在していた。市町村合併後の2010年に上記2校は統合されて、南さつま市立坊津学園中学校となった。市町村合併後の2010年に上記4校は統合されて、南さつま市立坊津学園小学校となった。太字は故人。
出典:wikipedia
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