櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ/いちいだにむなかたじんじゃ)は、京都府京都市西京区にある神社。櫟谷社と宗像社の2社が1殿に祀られており、櫟谷社は式内社で、現在は両社合わせて松尾大社の摂社である。社殿は渡月橋の南橋詰近くに鎮座する。櫟谷社と宗像社はそれぞれ「松尾七社」の一社に数えられ、特に櫟谷社は松尾社・月読社とともに「松尾三社」に数えられる。現在の祭神は次の2柱。『松尾社譜』や神社明細帳では、現在とは逆に櫟谷社は市杵島姫命、宗像社は奥津島姫命と記されており、本来はそちらが正しいともいわれる。なお、『松尾七社略記』では櫟谷社祭神を事代主神とする。創建は不詳。神社の鎮座地は、桂川(保津川/大堰川)が保津峡を出てゆるやかな流れに変わる場所になる。櫟谷社・宗像社はいずれも水神を祀ることから、この流れが変わる地を聖地と見なし地主神として祀られたことが両社の始まりと見られている。一説に、「櫟谷」とは当社すぐ西側の小谷を指すともいわれる。櫟谷社に関しては、国史では嘉祥元年(848年)に従五位下、貞観10年(868年)に正五位下の神階奉叙の記事が見える。また貞観12年(870年)の記事では、葛野鋳銭所近くの宗像・櫟谷・清水・堰・小社の5社に対して賀茂上下社・松尾社とともに新鋳銭を奉納したと見えることから、宗像社・櫟谷社は元々独立社であったとされる。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国葛野郡に「櫟谷神社」と記載されて櫟谷社が式内社に列している。その後仁安2年(1167年)3月25日には「松尾末社櫟谷旅所老尼一人頓死」という記載が見えるほか(『続左丞抄』)、仁治2年(1241年)にはやはり「松尾末社」である櫟谷宗形両社が焼亡して神体を焼いたという。また寛元2年(1244年)には、山崩れが発生して大堰川が塞がれ、末社宗像社では鏡石が落ちたという。このように、古くから両社は松尾大社の末社であった。室町時代初期の「松尾神社境内絵図」では、櫟谷社・宗像社両社は独立社殿ながら隣接して描かれている。明治維新後、明治11年(1878年)3月に両社は松尾神社摂社に定められた。櫟谷宗像神社では神像として女神像2躯と神像形1躯が伝えられている。これらの神像は他の松尾大社摂末社の神像と併せて京都府指定文化財に指定されており、現在は松尾大社の宝物館に所蔵・展示されている(「松尾大社#文化財」参照)。原典出典
出典:wikipedia
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