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中央通り (東京都)

中央通り(ちゅうおうどおり)は、国道1号・国道4号・国道6号・国道14号・国道15号・国道17号・国道20号・都道437号・都道452号の各路線の一部を南北に継ぐ、東京都通称道路名設定公告で告示された通りの通称名である。日本の道路の起点となる日本国道路元標がある日本橋を中心とし、南は京橋・銀座・新橋、北は神田・秋葉原・上野など、著名な商業地・繁華街などを通る都心の大動脈であり、東京都都市計画道路放射28号として指定されている。東京都通称道路名として指定される区間は、起点・港区新橋一丁目から終点・台東区上野六丁目までの区間である。1986年(昭和61年)8月10日に明治近代化のシンボル・銀座の道として、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選の一つにも選ばれており、銀座通り口交差点から銀座八丁目にかけては「銀座通り」や「銀座中央通り」の愛称で呼ばれることもある。1603年(慶長8年)、徳川幕府は江戸城の東側海岸地を埋め立てて町割りを行い、街道を整備した。このとき日本橋が架けられ、日本橋から南へ延びていく東海道を母体にして、京橋、銀座、新橋に至る道路を中央通りとし道路沿線の街とともに発展してきた。幕府は、翌1604年(慶長9年)に東海道をはじめとする五街道について、日本橋を起点と定めて街道筋に一里塚を築いた。1873年(明治6年)、明治政府は日本橋に道路元標を設置して、全国各地へ延びる国道の起点とし、これは現在も日本国道路元標とした標識板に形を変えて日本橋の路面中央部に埋め込まれている。中央通りの日本橋付近では、江戸の中心として有名大店が軒を並べ、魚河岸や青物市場が開かれるなど、江戸の台所として発展。明治以降も百貨店や問屋が立ち並ぶ通りへと変わり、現代も東京の金融や商業の中心地として沿道は発展していった。1872年(明治5年)の大火後、当時東京府知事の由利公正は、中央通りの南半分にあたる銀座通りに面する建物の不燃化を目指し、レンガ造りの洋風建築街を完成させた。このとき、道路幅を当時のレベルでは画期的な広さである15間(約27m)に拡幅改良して、歩道も分離してレンガで敷き詰め、マツやサクラの街路樹を植えた。1882年(明治15年)になると、日本橋から新橋まで馬車鉄道が施設され、ガス灯が灯るなど西洋化を取り入れた先進的なモダンな通りへと変わって行くと、銀座は繁華街として発展を見せ始める。大正時代に入ると銀座は、カフェやデパートも進出するようになって「銀ブラ」とよばれる社会現象も起こり、日本各地の繁華街は「○○銀座」と称することが流行となった。1967年(昭和42年)に通りを走る都電が廃止され、その翌年ごろから中央通りは電線共同溝を設置して電線の地中化を推進して電柱を無くし、歩道に御影石を敷き詰めて、デザイン街灯を設置するなど、それまでの中央通りの印象を大きく変貌させていった。さらに、1970年(昭和45年)からは歩行者天国をいち早く実施した通りとなり、休日にパラソルやテーブルが並ぶ都民に親しまれ人々で賑わう道路となっている。平日24時間交通量(台)かつて、中央通りのほぼ全線となる銀座地区から上野駅までの間で、毎週日曜日と休日に歩行者天国が実施されており、東洋一の長さを誇るとも言われていた。しかし1999年に、基本的にビジネス街であり閑散としていた神田地区の歩行者天国が廃止され、2001年には上野・御徒町地区と日本橋・京橋地区が廃止された。秋葉原地区も秋葉原通り魔事件などの影響で2008年から中止されたため、一時は銀座地区のみでの実施となっていた。秋葉原の歩行者天国は2010年1月23日より半年間の試行期間を経て再開されている。ほぼ中央通りの全線にわたり、東京メトロ銀座線が地下に敷設されており、比較的地面に近いところを通っている。また、かつての都電1系統は中央通りの上を走っていた。

出典:wikipedia

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