京阪宇治交通(けいはんうじこうつう)は、かつて京都府南部、滋賀県大津市、大阪府枚方市などでバスを運行していた京阪グループのバス会社。営業エリアのほとんどは京都府内だが、末期(1980年以降)の本社は大阪府枚方市にあった。会社登記上の本店は綴喜郡宇治田原町に位置していた。創業より1967年まではタクシーも運営していた。2006年4月1日、京阪宇治交通田辺とともに京阪バスに吸収合併され、84年の歴史に幕を下ろした。1990年代以降、バス事業者の分社化が多くなる傾向にある中で、21世紀最初のバス事業者の大型合併を行ったことでバス業界からは大いに話題となった。実質的な後継会社は2003年4月1日に子会社として発足した京阪宇治バス→京都京阪バスである。本項では末期に一時的に分社化された京阪宇治交通田辺についても記述する。京阪宇治交通のルーツとなるのは、1922年(大正11年)4月14日に創業の宇治田原自動車商会であった。これは宇治田原村(当時)の発展を目的としたもので、5人乗りフォード2台で宇治と岩山を1日6往復運行した。1926年に宇治川電力大峯ダムが竣工すると、宇治川ラインと称する観光コースが登場することとなった。同社では宇治からのバスでこの観光コースの輸送を行なうべく、1929年10月に宇治川線を開業した。しかし、1935年(昭和10年)の豪雨では社屋流失などの被害を受け、元来赤字経営だったものがさらに経営悪化することとなり、外部から社長を迎え入れた上で株式会社に改組した。宇治田原自動車の新社長に就任した細谷福太郎は、運賃値下げや観光客の誘致、さらに沿線観光開発などを進めることとなり、同社が観光輸送中心に発展する方向性を確立した。戦時体制に入ると、沿線に傷痍軍人の療養所や火薬工場などの軍事施設があったことから、輸送人員は増加したものの、経営的には苦しい状態となった。戦局が悪化すると、物資不足からバスの整備も満足に出来ず、1往復するごとにバスを修理するような有様で、1945年の終戦を迎えることになった。終戦後、買出しなどの乗客輸送で活況を呈したように見えたものの、経費がかさんだことからなかなか経営は好転しなかった。戦時中は休止となっていた宇治川ラインが復旧し、京阪電鉄ではダム工事用の軌道を改修して「お伽電車」を走らせた。これはバス路線とほぼ並行するため、当初バス会社ではお伽電車を脅威とみなしていたが、観光客の急増はバス利用者の増加にもつながることになった。しかし、1953年(昭和28年)9月の13号台風による崖崩れにより、道路とお伽電車はともに流失、その後も数年間は山崩れが相次ぎ、宇治川ラインのバスは長期にわたり運休を余儀なくされた。1954年には京都市内乗り入れを果たしたものの、1957年7月に発生した事故の補償も会社の経営に深刻な影響を与えた。このため、1959年に京阪電鉄が88%の株式を買収の上、京阪の傘下に入ることになった。この時に社名を京阪宇治交通に変更している。京阪の傘下に入ってからは、資金の裏づけが確保されたこともあり、再び積極的な営業展開を行なうことになり、車両の更新も進められた。しかし、経営的にはなかなか好転しなかったことから、1963年以降は合理化に着手し、ワンマン化等を進めるほか、貸切バス事業は全て京阪国際観光自動車に営業譲渡した。1970年以降、京阪電鉄沿線のベッドタウン化により、住宅団地が次々と建設され、京阪バスと京阪宇治交通は積極的に団地路線の新設を行なった。特に八幡町(1977年に市制施行)の男山団地と枚方市くずは地区では大規模な造成が行なわれ、京阪宇治交通がくずは地区へ乗り入れ団地輸送を担当した。これは京阪宇治交通にとっては大きな転機となり、1972年には累積赤字を解消するなど、経営状態は大きく改善されることになった。観光輸送中心だった京阪宇治交通は、団地輸送を基幹とする都市型バス事業者への変貌を遂げた。その後も、主に京都府南部の京阪、近鉄沿線のフィーダー輸送の役割を果たしていくことになる。2000年代に入ると、京阪グループ内全体での事業再編成が行なわれた。まず1999年には宇治営業所の事業を京阪宇治交サービスに譲渡、2002年には田辺営業所の一部路線を京阪宇治交通田辺に分社化した。さらに、京阪宇治交サービスのバス事業は、2003年に京阪宇治バス(2002年に当社の子会社として設立)に引き継いだ。2004年には京阪バスシステムズが京阪グループのバス事業を統括する持株会社として設立され、京阪宇治交通および分離子会社はその傘下となった。2006年4月に京阪宇治交通と京阪宇治交通田辺は京阪バスに合併された。一方、合併に加わらずに実質的な後継会社となった京阪宇治バスは、2014年4月に京阪シティバスを合併し、京都京阪バスに改称した。バスのみを記載し、過去に存在していたタクシーの車庫は省略する。1974年9月16日、京阪宇治交通では方向幕の色分けの採用(色分けは1988年に廃止)と同時に系統の判別の容易さの観点から、既に大都市で採用されていた系統番号を同社でも採用することとなった。付番は乗客の判別のし易さおよび地区分類の観点から以下の原則で行っていた。スルッとKANSAIのカード印字は、京阪宇治交通が「宇交バス」、京阪宇治交通田辺が「宇田バス」であったが、京阪バス吸収合併時にいずれも「京阪バス」に変更された。ただし、旧京阪バス車と旧京阪宇治交通(京阪宇治交通田辺を含む)とでは印字のフォントが異なる。これは当時採用していたカードリーダー前者が東芝製。後者が小田原機器製による機械の相違によるものである。車体の色は路線バスについては1983年度の新車から白にワインレッドのラインが引かれている(京阪宇治交通創立60周年記念)。2002年3月1日に導入されたノンステップバス(並びに一部のワンステップバス)は、緑を中心としている。緑は宇治茶の緑、三本の線は八幡市の木津川・宇治川・桂川の三点合流をイメージしている。新車のシートが京阪グループ共通のシートに統一されている(京阪宇治交通創立80周年記念)。また1994年9月4日から運行を開始した関西空港リムジンバスと貸切バスについては一般から公募(公募当時、宇治市内の京都府立菟道高等学校3年生の女子生徒が発案)した「十二単」をデザインした塗装を採用した。リムジンバスは1996年頃より「うらら(号)」の愛称が名付けられたが、京阪バスと合併した2006年3月31日をもってこの愛称名は廃止された。なお「うらら」は貸切バスの愛称としても採用され、こちらは子会社の京阪宇治交サービスとその分社会社の京阪宇治バス→京都京阪バスに継承された。車両は男山は三菱ふそう車を、宇治はUDトラックス(旧:日産ディーゼル)、日野車(1995年より導入)を中心に導入していたが一部例外もあった。晩年に開設された田辺では両方配置していた。いすゞ車は1960年代前半頃まで宇治と宇治田原に配置されていたが一旦導入を打ち切り、1997年より貸切バス車両で導入を再開した。路線バス車両では2002年より再導入した。このように中期より末期には上記の新たな試みを実施していた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。