市川 森一(いちかわ しんいち、1941年(昭和16年)4月17日 - 2011年(平成23年)12月10日)は、日本の脚本家、劇作家、小説家、コメンテーター、学校法人鎮西学院理事・評議員、長崎歴史文化博物館名誉館長、日本放送作家協会理事長。長崎県諫早市出身。鎮西学院中学部、長崎県立諫早高等学校を経て日本大学藝術学部卒業。妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子。妹は放送作家の市川愉味子(井上愉味子)。父は旧海軍大村航空隊の教官。1966年(昭和41年)に円谷プロダクション製作の子供向け特撮番組『快獣ブースカ』第4話「ブースカ月へ行く」で脚本家デビューする。その後しばらくの間は、子供番組を中心に執筆していた。当初メインライターを務めた『ウルトラマンA』を最後に大人番組に軸足を移して脚本活動を行った。1979年(昭和54年)、舞台『黄金の日日』の戯曲により大谷竹次郎賞受賞。1981年(昭和56年)、『港町純情シネマ』などにより芸術選奨新人賞受賞。1983年(昭和58年)、『淋しいのはお前だけじゃない』により第1回向田邦子賞受賞。1989年(平成元年)、『異人たちとの夏』により日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。同年、『明日 - 1945年8月8日・長崎』『もどり橋』『伝言』により芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年(平成11年)、『幽婚』によりモンテカルロ・テレビ祭最優秀脚本賞受賞。2003年(平成15年)に紫綬褒章受章。脚本家としての活動のみならず、ワイドショー番組にコメンテーターとして出演するなど幅広く活動している。なかでも長らく「日本アカデミー賞授賞式」のテレビ中継内では予想屋として出演。ことごとく外れる予想で知られた。2003年(平成15年)からは、日本脚本アーカイブズの発足に尽力した。後に日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムとして実現した。2011年(平成23年)には旭日小綬章を受章。その受章の際、内閣からの公式発表前にマスコミ各社が事前に行う記者取材が10月27日に予定されていたが、その日に急な発熱を起こして入院し、その際に受けた検査で肺がんが発見され、闘病生活に入っていたという。2011年(平成23年)12月10日、肺がんのため死去。。戒名は祇承院弘庸森叡居士。キリスト教の洗礼を受けていたが、本人の生前の希望により一族の菩提寺に埋葬された。死後に故郷・長崎への思いを込めた市川の遺稿が妻により発表された。死後、福地茂雄を理事長として一般財団法人市川森一脚本賞財団が設立され、新進脚本家を対象とした「市川森一脚本賞」が2013年より選定されている。
出典:wikipedia
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