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長久保赤水

長久保 赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠、俗名:源五兵衛、享保2年11月6日(1717年12月8日) - 享和元年7月23日(1801年8月31日))は、江戸時代中期の地理学者、漢学者である。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。号の赤水と字の玄珠は荘子の天地篇にある『黄帝、"赤水"の北に遊び、崑崙の丘に登って、面して南方して還帰し、其"玄珠"を遺せり。』から取られている。農民出身であるが、遠祖は大友親頼の三男・長久保親政。現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる。学問を好み地理学に傾注する。17歳(1733年(安永3年))の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通い、壮年期に至るまで漢字や漢詩などを学んだ。25歳(1741年(寛保元年))の頃、玄淳らとともに水戸藩の儒学者で彰考館総裁を務めた名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積んだ。また、地図製作に必要な天文学については、名越南渓の斡旋により渋川春海の門下で水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けた。安永3年(1774年)、『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成。この修正に努め、安永8年(1779年)、『改正日本輿地路程全図』を大坂で出版し、その普及に努めた。 この間水戸藩主徳川治保の侍講となり、藩政改革のための建白書の上書などを行った。天明5年(1785年)には世界地図『地球万国山海輿地全図説』や中国地図『大清広輿図』も出版している。いずれも実測図ではないが関連文献が深く検討され、明治初年まで版を重ね普及している。天明6年(1786年)、徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の地理志の執筆も行う。師である鈴木玄淳らとともに、中国の竹林の七賢になぞらえ、"松岡七賢"と称される。2012年11月3日、高萩駅前に赤水の銅像が建立された。長久保赤水は安永3年(1774年)に日本地図『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成する。これを修正し、安永8年(1779年)には『改正日本輿地路程全図』の初版を大坂で出版した。日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、作成者名から通称『赤水図』と呼ばれる。これ以前に、江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図(日本地図)』にも経緯線が入っており、この地図にならって経緯度線を入れて出版したとされる。『幸安図』にも『赤水図』にも、当時未開拓であった北海道は描かれていない。また、緯線には緯度が記載されているが、経線には経度は記載されておらず、京都御所を基点に経線が引かれていると考えられる。『幸安図』や後に作成される伊能忠敬の地図なども、京都を基準に経線が引かれている点で共通点が見られる。10里を1寸としているので、縮尺は約130万分の1となる。6色刷で、蝦夷(現在の北海道)や小笠原諸島・沖縄を除く日本全土が示されている。赤水図は、伊能忠敬の地図より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に8版を数えた。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあって、この赤水図が明治初年まで一般に広く使われた。沿岸部のほとんど全てを測量した伊能の地図には劣るが、20年以上に渡る考証の末、完成した地図は、出版当時としては驚異的な正確さであった。赤水図は広く普及したためドイツ国立民族博物館のシーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館など海外の博物館等にも多く収蔵されており、当時の欧米において日本を知る資料として活用されていたことが伺われる。現在、日本と韓国の間で領有紛争となっている竹島が当時の名称「松島」で記されており、日本の領有を裏付ける資料としてしばしば引用されている。

出典:wikipedia

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