東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)は、例年1月2日と翌3日の2日間にわたって行われる大学駅伝の競技会(地方大会)である。関東学生陸上競技連盟が主催し読売新聞社が共催する。一般には箱根駅伝(はこねえきでん)と呼ばれ、その実施については関東学生陸上競技連盟が定める「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」に定められている(以下、「東京箱根間往復大学駅伝に関する内規」は単に「内規」として説明する)。現在開催されている駅伝の中で最長の距離を持ち、1987年から放送を開始したテレビ中継によって国内の学生スポーツ競技会の中でも極めて高い人気も誇る。「箱根駅伝」は読売新聞東京本社の登録商標(第5565518号)である。出場校は20校で、これとは別に出場校以外の競技者による関東学生連合チーム(オープン参加)が参加する(2015年の第91回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)。さらに5年ごとの記念大会では関東インカレ成績枠という出場枠が設けられている(2019年の第95回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)。コースは、東京都千代田区大手町・読売新聞東京本社ビル前から、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町・芦ノ湖までの往復で、往路107.5km、復路109.6km、計217.1km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。第1回大会は、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための代表選考会という位置付けで、1920年2月14日に行われた。これは、1912年のストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号の金栗四三が、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけである。別の説として、箱根駅伝は飛脚制度をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引き継ぎ、箱根町郵便局(箱根宿)まで届ける観光イベントだったという説もある。その目的は、箱根で観光客が少なくなる冬に観光客を呼びこみ、2日間に渡って開催する事で旅館やホテルに宿泊してもらうためだったと言われている。第二次世界大戦中に一時中断され、1947年に復活した。第32回(1956年)から現在の1月2・3日の開催となった(内規第1条)。箱根駅伝は、関東地方では従前から人気があったが、1987年に日本テレビが全国放送で全区間の生中継(電波を途切れさせることなく完全中継実施は1989年から)を開始して以降、正月の風物詩(国民的スポーツ大会)として関東地方以外でも知名度・注目度が格段に向上した(詳細は#中継番組を参照)。また、箱根駅伝出場者からオリンピックや世界陸上などに出場を果たした選手も少なくない(詳細は箱根駅伝の人物一覧を参照)。箱根駅伝は、関東学連が主催する地方大会であり、10位以内に入ると、同じ年の全国大会で駅伝シーズンの開幕を告げる出雲全日本大学選抜駅伝競走(同年体育の日開催。以下「出雲駅伝」という)に関東代表として出場できる。一般に、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝を併せて「大学三大駅伝」と呼ばれており、同じ年度の全大会に優勝すると「三冠」と称され、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)の3校が達成している。ただし、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学連加盟校以外の大学は三冠を達成することはない。また大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学と早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝を完全優勝しての三冠を達成した大学は1校もない。関東学連加盟校のうち、前年大会でシード権(後述)を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校と、このほかに関東学生連合チームを加えた21チームが出場する(2015年の第91回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)。また、第95回(2019年)以後の5年ごとの記念大会では、関東インカレ5年間の総合成績の累計が最も多い大学に出場権を与える関東インカレ成績枠が設けられている。競技者は次の参加資格を満たしている必要がある。第68回(1992年)までは、28歳以下という年齢制限があったが、第69回(1993年)から撤廃されている。参加希望校の内、関東学連が承認したすべてのチーム出場校を15チームに限定し、出場全チームを当該同年度秋季の予選会にて選考以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム※第35回(1959年)は予選会終了後に計算ミスで5位と6位が入れ替わったため、この年のみ予選会通過枠を1枠増やした16校で本大会を実施※第40回(1964年)の記念大会時は、例年の15校のほかに特例として関西と九州から各1校の計2チームを招待以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム※第50、60、70回(1974、1984、1994年)の記念大会時は、特例として20チームで実施。増加分の決定方法は年度により異なるので、後述の歴史の年表を参照のこと。箱根駅伝に出場できるのは、以下の4種類の方法で選んだ合計20チームとなった。※第85回(2009年)は出場校を3校増やす。これは第85回記念大会に伴う措置で、シード校9校(第84回(2008年)で関東学連選抜が第4位に入ったことにより、前項の規定に基づき第85回(2009年)のシード枠が1つ減ったため)と予選会から選考した13校に、関東学連選抜チームを加えた23チームで争われる。予選会選考方式は成績上位10校に自動的に出場権を与え、残り3校についてはインカレポイントを加味して選考する。
※第86回(2010年)は関東学連選抜が第4位に入ったことに加え、第3位に入った日本体育大学が跳躍選手の不祥事でシード権を剥奪されたことから、予選会枠が11校に拡大された。箱根駅伝に出場できるのは、以下の3種類の方法で選んだ合計21チームとなった(ただし第90回の記念大会では2枠増の23チーム)。※なお、第95回(2019年)以後の5年ごとの記念大会では、予選会の枠とは別個に予選会が免除される「インカレポイント枠」を創設する方向で検討され、関東インカレ5年間の総合成績の累計が最も多い大学に出場権を与える関東インカレ成績枠が設けられることとなった。申込み(チームエントリー、区間エントリー)は関東連盟が提示する日時と場所で所定の様式によって行われ、資格審査委員会の審査によって参加資格ありと認められた大学・競技者のみ正式出場が認められる(内規第8条)。チームエントリーは16名以内で、区間エントリーのチーム編成は正選手10名と補欠選手6名以内である(内規第9条)。ただし、留学生については、エントリー2名以内、出走1名以内に制限されている(内規第9条)。現行の16人エントリーになったのは第79回(2003年)からで、背景にはここ数年で体調不良によるブレーキやけがによる途中棄権などが相次いだことで、主役である選手の健康を最優先した主催者側の配慮と言える。第82回(2006年)までは区間エントリーの際にメンバーを16人から14人に減らす必要があったが、第83回(2007年)より区間エントリーでも16人のまま登録することができるようになった。したがって、補欠選手はそれまでの4人から6人に増えた(ただし、後述のように往路・復路の当日エントリー変更は、従来どおり4人までの変更に限られている)。区間エントリーは1区から10区までにエントリーされた正選手とその他の補欠選手とに大別される。そして、正選手には主催者側が用意したナンバーカードが配布される。ナンバーは1区から順に1、2…となり、補欠選手は11番から16番までとなる。ナンバーカードの記載は「(前年の順位・予選会の順位に従い大学に割り振られた番号)-(1番 - 16番)」となり、例えば前年3位の大学の6区にエントリーされた選手は「3-6」となる(第80回より。それ以前は大学ごとの番号は付されなかった)。変更は正選手と補欠選手との入れ替えのみで4名までとされ、区間変更は認められていない(内規第10条2項)。つまり、補欠選手は当日のエントリー変更で正選手と入れ替えとしてどの区間にも入ることができるが、既に区間ごとに配置されている正選手はその区間しか走ることができない(例えば2区に補欠から選手を入れることはできるが、2区と4区の走者を変えることはできない)。通常の駅伝では補欠選手との交代には医師による診断書の提出が義務付けられているが、この大会は長時間の移動への配慮からその必要がないため、戦略的に補欠との選手交代が行われるケースが数多くあり、補欠選手は言わばジョーカー的な意味合いを持つ。逆に区間エントリーで補欠選手と交替した選手は走ることができないため、当て馬的な要素もある。2区にチームで最も力のある選手を置くのが通常であるが、選手層の厚い大学では「つなぎの区間」にエースを配置し、他大学の虚を突くこともある。傾向としては往路での変更は比較的少なく、復路で何人かを変えてくることが多い。また、各校のエースが集う2区の変更が最も少ないようである。逆に言えば、補欠選手になるのはエースとまでは行かないものの、それに準じる選手や力がありながら調子が上がらない選手、全くの無名選手…などが考えられる。近年ではいずれかの区間を走るべき確実な力のある(かつ調子のよい)選手、またエースすらもあえて補欠登録して、他校のエントリー状況や往路の結果を見ながらいずれかの区間に投入する作戦を取る大学も見られるようになった。優勝をねらうチームは、ライバル視するチームの配置を読んだ上で自チームのそれを考える必要がある。逆に予選会を勝ち上がってきたチームや苦戦が予想されるチームの中は、往路重視の布陣を敷いてくることが多い。選手層が薄く、後半区間での巻き返しが難しいため、エースクラスを序盤に配置することで落ち込みを避けるのがねらいである。また、どのチームも特殊区間である5区、6区については候補を複数用意していることが多い。これは他の区間とは違い、コースの特殊性ゆえに突発的なアクシデントなどによる急な抜擢が難しい(起用しても適性がない選手が走ることになるため、結果は芳しくないことが多い)ためである。4区以外の9区間が20km超という長丁場であることを考慮し、体調不良など万が一の状況に備えて選手の交替が認められている点が他の主要駅伝とは大きく違う点である。また、なかなか調子が上がらない選手の様子をぎりぎりまで見るという点でも、補欠温存ができるのは非常に大きい。先述したように箱根駅伝には関東学連加盟校のうち、前年大会でシード権を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校と、このほかに関東学生連合チームを加えた21チームが出場する(2015年の第91回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)。さらに5年ごとの記念大会では関東インカレ成績枠という出場枠が設けられている(2019年の第95回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)。本競技会で10位までに入った大学は「シード校」として次回の本競技会出場権を取得する(内規第13条1項)。つまり、前回の本競技会で総合10位以内に入賞していれば本競技会出場権を取得し予選会は免除される(シード権、予選免除権)。ただしシード権を確保した大学に重大不祥事が発覚した場合、シード権が剥奪される場合がある。他の大学駅伝大会に比べると、箱根駅伝ではシード校が10校とやや多くなっている(出雲駅伝は3校、全日本大学駅伝は6校)。前回大会でシード権を逃した大学と次の大会の予選会で本選出場権を獲得した大学がすべて一致することもあるが、過去に予選枠が6校だった第56回-第57回、第61回-第62回と、予選枠が9校になってからでは第82回-第83回の計3回しか起きていない。シード校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームはいまだ発生していない(出雲駅伝では発生例がある)。なお、記念大会において関東インカレ成績枠の該当校がシード権を獲得しており出場権を確保している場合には繰り上げは行われない。第83回から第90回までは関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選抜するとされていたが(この場合は次年度の出雲全日本大学選抜駅伝競走への推薦校も9校となる)、2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」から「関東学生連合チーム」に名称変更されるとともにオープン参加となっている。箱根駅伝の予選会は本競技会の2か月以上前に行われ、別に開催要項が定められている(内規第14条1項)。予選会は陸上自衛隊立川駐屯地内の滑走路を周回し、立川市の市街地を通過して、昭和記念公園内をゴールとする20kmのコースを各校10名以上12名以下の走者が走って行われる。前年の1月1日から予選会申込期日前日までの公認記録で、5000m16分30秒00か10000m34分00秒00のどちらかの記録(トラック記録に限る)を有する選手のみに出場資格があるため、この出場資格を有する者を補欠も含めて10人以上揃えなければならない。予選会では各校上位10名の合計タイムにより10校を選出する。予選会での順位を決定する際の記録の扱いは、下記の通りとなっている一般論として、予選に出るということは、本大会の約2か月半前に一度チームや個人としての体調やコンディションのピークを構築(ピーキング)する必要がある。そのため、チームとして、年間を通しての調整面で予選突破が不要なシード校に比べてより多くの課題に取り組まなくてはいけないという面がある。なお、5年1回の記念大会については予選会とは別に関東インカレ成績枠が設けられている。これは関東インカレ5年間の総合成績の累計が最も多い大学に出場権を与えるものである。箱根駅伝では第23回(1947年)から予選会が実施されている。当初は関東学生10マイル(約16.1kmコース)での成績を選考材料にしていたが、予選会のコース・距離及び選考方法は、次第に変遷を重ね、現在は陸上自衛隊立川駐屯地→立川市街地→国営昭和記念公園の全長20kmのコースで予選会を行なっている。また、当初は参加校全校が予選会に参加し上位15校が本戦出場する規定となっていたが、第32回(1956年)まではいずれも参加校が15校以下であり予選参加の全校が本戦出場していた。第33回(1957年)からは規定が変更となり、前回大会の総合成績上位10校にシード権を与え、予選会からの本戦出場は予選上位5校のみとなり、これ以降は予選会で敗退校が出るようになった。第48回(1972年)からは予選会からの出場枠が6校となり、第79回(2003年)以降は予選上位9校が本戦出場できることとなっていた(学連選抜の前回大会成績がシード圏内の場合は上位10校が本戦出場)。第79回大会から第89回大会まではインカレポイント制が導入されていた。これは予選会では本競技会の出場校の数からシード校を除いた残りの出場校数を、まず、タイムにより6校選び(前回の本競技会において関東学連選抜チームが10位以内に入った場合には7校選び)、残り3校はその年の関東インカレの成績に基づくポイント制との併用により選ぶというものである。具体的には各校上位10人の合計タイムにより、まず上位6校(関東学連選抜が前回大会10位以内だった場合は7校)が予選通過となり、残り3校については関東学生陸上競技対校選手権大会の成績に基づくポイント(インカレポイント)による減算タイムを併用して順位を決定していた。インカレポイントは、大学の陸上部全体の成績が反映されるため、駅伝だけではなく陸上競技部全体としての取組が成績に影響する仕組みとなっている。本戦がテレビメディアに大きく扱われるようになって以後、予選会を突破しての本戦出場には、僅差のタイムにより明暗が分かれることが多い傾向にある。特に第83回大会予選会においては、出場を逃した10位の拓殖大学と9位の国士舘大学とのタイム差は、インカレポイントを含めてわずか1秒だった。前年大会でシード権を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校のほかに関東学生連合チームが出場する(2015年の第91回東京箱根間往復大学駅伝競走以降の編成)。2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」から「関東学生連合チーム」に名称が変更された。第79回(2003年)から関東学連選抜チームの参加が認められることとなり、第82回(2006年)までオープン参加として個人記録のみが認められていた。5年ごとの記念大会は日本学連選抜チームが関東学連選抜チームに代わって参加することが認められている(内規第12条)。最近では第80回(2004年)で特別に日本学連選抜チームがオープン参加で出場した。第79回(2003年)から参加が認められるようになった関東学連選抜チームのメンバーは、予選会で落選したチームに所属する選手のうち個人成績で上位に位置する選手から、各校最大2名までの枠内で選抜される。第80回(2004年)では日本学連選抜としての参加だったこともあり、6位相当の成績を収めたが、通常の関東学連選抜の場合には下位に低迷することが多かった。もっとも、日本学連選抜チームとしての出場の機会しかない関東以外の各地区の学生が最初から選抜チームのメンバー入りを目指し練習してきたのに対し、関東学連選抜チームの場合、所属大学の一員として箱根駅伝に出たいと言う気持ちがあるのは普通のことであり、予選会で落選したショックからわずか2ヵ月後の本番に選抜チームとして招集されたとしてもモチベーションが上げにくいことも事実である。また、大学ごとの真剣勝負の場に趣の異なるチームが混じることへの違和感も根強い。このような意見もある一方、選抜チームの経験をチームに持って帰り次回へのモチベーションとすることは大いに意義のあることであり、参加選手からは「この経験を母校に持ち帰り来年に生かす」との声も聞かれ、後年予選会を勝ち抜き本選出場を果たした大学もある。第83回(2007年)からはチームとして正式にタイムおよび順位が記録されることになり、関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選抜することとなり、この場合は次年度の出雲全日本大学選抜駅伝競走(出雲駅伝)への推薦校も9校となるとされた。これにより全体のレベル拮抗が予選会参加校のレベル向上へと結びつき、第84回(2008年)では関東学連選抜が総合4位という好成績を収め、続く第85回(2009年)も総合9位となり、2大会連続してシード圏内入りを果たした。予選会出場枠が1枠増えることにより自身の所属大学の翌年の箱根出場の可能性がわずかながらも広がることから、関東学連選抜の存在価値が増し、そのレース順位が大きな意味を持つようになった。なお、第80回(2004年)に出場した日本学連選抜については、「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」第12条において、5年ごとの記念大会での参加が認められてはいるが、第85回(2009年)については記念大会であるが日本学連選抜ではなく関東学連選抜が選抜チームとして出場している。関東学連選抜チームについては、第86回(2010年)終了時から廃止・継続または新制度の導入などの議論を重ねた結果、2012年6月6日に行われた関東学連代表委員総会において、第89回(2013年)は現行どおり実施(ただし、各校から1名とし、16校から選出)、第90回(2014年)は不採用。第91回(2015年)以降は、廃止・継続のいずれの可能性も残し検討を重ねた結果、2013年6月10日に行われた委員総会で当初案の5年ごとの記念大会の編成ではなく、第91回以降も継続して実施することが決定した。2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」からオープン参加の「関東学生連合チーム」に変更された。コース(競走路)は東京・読売新聞社前から箱根・箱根町芦ノ湖駐車場入口間の往復217.1km。東京大手町読売新聞社前、日比谷、西新橋、三田、品川、六郷橋、鶴見、横浜駅、保土ケ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、二宮、小田原、箱根町芦ノ湖駐車場入口の各点がコース上の通過点として設定されている(内規11条1項)。また、日本橋については復路のみ通過点とされている(内規11条1項)。以下、各区の主な特徴について述べる(コース途中の括弧書きは主な経由地、および固定テレビカメラ設置地点。通過道路名は国道・主要道以外は割愛する)。 東京・大手町→箱根・芦ノ湖 5区間/107.5km東京・大手町 読売新聞東京本社ビル前(往路スタート)→(東京都道409号日比谷芝浦線)→(国道15号)→(田町)→(品川駅前)→(新八ツ山橋)→(蒲田(京急蒲田))→(六郷橋)→鶴見中継所鶴見中継所→(横浜駅前)→(国道1号)→(権太坂)→戸塚中継所戸塚中継所→(遊行寺坂)→湘南新道→国道134号→(茅ヶ崎)→(湘南大橋)→平塚中継所平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→小田原中継所新・小田原→旧・小田原→(箱根登山鉄道箱根湯本駅前)→(函嶺洞門バイパス)→(大平台ヘアピンカーブ)→(宮ノ下富士屋ホテル前)→(小涌園ユネッサン前)→(恵明学園前)→(芦の湯)→(国道1号最高点)→(元箱根)→箱根・芦ノ湖(往路ゴール) 箱根・芦ノ湖→東京・大手町 5区間/109.6km箱根・芦ノ湖(復路スタート)→国道1号→(芦之湯)→(恵明学園前)→(小涌園前)→(宮ノ下温泉郷)→(大平台)→(塔ノ沢温泉郷)→(函嶺洞門バイパス)→(箱根湯本駅前)→小田原中継所小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所平塚中継所→(湘南大橋)→(茅ヶ崎)→(浜須賀交差点)→湘南新道→(藤沢)→国道1号→(遊行寺坂)→戸塚中継所戸塚中継所→(権太坂)→(横浜駅前)→国道15号→鶴見中継所鶴見中継所→(六郷橋)→(蒲田(京急蒲田駅))→(大森)→(大井)→(新八ツ山橋)→(品川駅前)→(田町)→(都道409号)→(国道1号)→(日本橋)→東京・大手町 読売新聞東京本社ビル前(復路ゴール)東京箱根間往復大学駅伝競走競技実施要項並びに東京箱根間往復大学駅伝に関する内規第5章「競技細則」第15条〜第21条に基づいて行われる。競技者が競技中にケガや疾病などによって走行困難となり歩行、立ち止まり、横臥などの行動に移った場合で、本人がなお競技続行の意思をもっている場合にも、運営管理車に同乗の競技運営委員、走路管理員、監督またはコーチの三者の合意によって競技を中止させることができる(内規第17条第1項)。競技中止の通告は、大会の競技運営委員が当該走者に対して赤旗を挙げて示す、という手順で行われる。競技者が走行困難となり競技中止・途中棄権となった場合、その区間の前区間までの記録は公式に認められるが、次区間からはオープン参加として繰り上げ出発し以後走行そのものは許されるが記録は公式に認められない(内規第17条第2項)。大会史上、計11大会でのべ15チームが途中棄権している。現行ルールでは存在しないが過去の記録の上では、正規の選手が走行不能となった時に補欠選手を改めて走り直す「代走(再走)」が行われているケースが確認できる。これは当時のルールが「走行不能になった場合、途中棄権とはならず、代走にて再度該当区間初めから走り直し記録は残る」となっていた事による。このケースでは同一区間について複数名の選手名の記載が確認できる資料がある。このような「代走(再走)」で過去の記録の上では5件確認できる。タスキの受け渡しは、前走者が完全に所定の中継線を通過した上で、中継線の進行方向20m以内で次走者に渡して行うこととなっている(内規第18条第2項)。往路の鶴見・戸塚中継所については先頭走者から10分遅れたチーム、往路の平塚・小田原中継所と復路すべての中継所については先頭走者から20分遅れたチームは、交通規制の時間を長引かせないため、各中継所審判主任の裁定で、前走者が到着しなくても次の走者を出発させる(内規第19条)。これを「繰り上げ出発」という(報道などでは「繰上げスタート」といわれている)。繰上げ出発を採用する他の駅伝と同様に、チームが繰上げスタートとなった場合、走者は「繰り上げタスキ」と呼ばれるタスキをかける。箱根駅伝の場合、内規第16条第3項により、繰り上げ出発のチームは、2区から4区・7区から9区では、大会本部で用意する黄色と白色のストライプのタスキを使用することになる。そのため、それまで走っていた選手らにとっては、自らの学校のタスキが全区間つながらなかったという悔しさがにじみ出る瞬間であるといわれ、実際に日本テレビの放送では「無念の繰り上げ」という表現も使われる。同時に出場校はすべての中継所で繰り上げを回避するべく高い競技レベルを維持することが要求される。復路のスタートは、1位から10分以内の大学は時差出発を行い、その他の大学は1位校のスタートから10分後に同時出発する(内規第20条)。つまり、往路のゴールにおいて1位から10分を超えて到達した大学は、3日の復路では午前8時10分(JST)に同時出発となる(復路の一斉スタートについては「復路一斉スタート」「繰り上げ一斉スタート」などと呼ばれている)。復路のスタートで同時出発が行われた場合、復路では各チームが走行している順位(見かけ上の順位)と往路から通算した実際の順位が異なる場合を生じるため、チームの総合順位は見た目のタイムに繰上げ分の時間差を加算して算出される。またテレビ中継における順位は、復路同時出発による時間差が換算された上で表示される。これらの事情もあり、復路で一斉スタートとなったチームの場合、復路で最初にゴールした場合でも、往路のタイムとの関係から総合優勝とならないケースがある。そのため、復路の一斉スタートも10分ではなく20分にすべきという主張もあるが、交通規制などの関係から難しいとされる。繰り上げ出発などにより、ゴールの着順が成績順位を示さない場合の同タイム校の順位決定は、区間上位者数の多少によるものとされ、まず区間1位の数で比較し、同数ならば区間2位の数と順位を一つずつ下げながら数を比較していき、多い方が上位となる(内規第21条)。この方法でも同タイム校が複数になった場合は、すべて同順位として扱われ、10位同タイム校が複数になった場合は、すべて10位校として翌年へのシード権が与えられる(内規第21条)。箱根駅伝が着想されるに至ったきっかけは1919年10月、金栗四三が埼玉県鴻巣市で行われた小学校の運動会に審判として招かれたことであった。帰路の車中、金栗は(同じく審判として招かれていた)2人の陸上選手、東京高師の後輩・野口源三郎および明治大学の学生だった沢田英一と語り合った。沢田英一がその年の6月に同窓の出口林次郎と二人で札幌・東京間の走破を成し遂げていたことを踏まえ、3人は世界の耳目を集め、日本の長距離選手を育成するような外地での長距離走はできないものかと考えた。このときの結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であった。その「予選会」という位置づけで国内での駅伝大会の実施が企図された。アメリカ大陸横断コースで最も大きな障壁となるであろうロッキー山脈の走破を見据え、この「予選会」のコースとして選ばれたのが山越えをコースに含む東京-箱根間であった。金栗らは大学や新聞社を回って参加と協力を訴え、金策に苦労しながらもなんとか1920年2月14日の第1回箱根駅伝の実施へこぎつけた。こうして箱根駅伝の歴史が始まるが、肝心の「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかった。明治大学の出口林次郎と早稲田大学の生田喜代治らは箱根駅伝の実施に協力を惜しまなかった報知新聞社を訪ねて再び計画への協力を願ったが、実現は難しいという答えしか得られなかった。二人はあきらめず毎日新聞社の資金を得て調査のため1922年にアメリカに渡った。結局「アメリカ大陸横断駅伝」の話はそのまま頓挫した。その後、出口はコーネル大学からベルリン体育大学に学び、母校明治大学で教鞭をとることになった。しかし生田は渡米5年目の1927年メキシコのカンセンシコで事業をめぐるトラブルに巻き込まれて横死している。資料によっては「アメリカに渡った学生が殺害されたため、アメリカ横断駅伝の計画はついえた」という書き方がされていることがあるが、実際には計画は早々に頓挫しており、生田の死によって駅伝計画が中止されたわけではない。別の説もある。箱根駅伝は寒さや雪のため箱根で最も観光客の少ない真冬の2月に観光客を呼び込み(第1回開催は2月14~15日)、2日間に渡って開催することで、ホテルや旅館に宿泊してもらうために行われた町おこしのイベントであり、1917年に行われた「東海道駅伝徒歩競走」に影響を受けた当時の箱根町郵便局長・石内九吉郎が企画し、箱根町長だった養父・石内為次郎の紹介で、神奈川県会議員の河野治平に開催の相談を持ちかけたのがきっかけである。観光イベントだったため後述のように地元の協力があり、競技のルールもあいまいであったと言われている。ちなみに河野治平の息子は、第1回箱根駅伝で4区を走った河野一郎であり、孫は関東学生陸上競技連盟の役員を務めた河野洋平である。そもそも駅伝とは、飛脚制度(郵便配達)をもとにした日本独自の競技であり、箱根駅伝は手紙に見立てた襷を、東京から宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で手渡し、日本最古の郵便局である箱根町郵便局(箱根宿)まで届けて、東京に戻るまでの速さを競うという意味があり、箱根町郵便局はよく知られていた。宿駅を基準に区間を設定しているため、一区間が約20kmと他の駅伝に比べ長い距離になっている。なお、郵便局は戦後にゴール地点から移転している。黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。また「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をした後で午後からスタートすることもあった。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかった。実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た。山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。しかし前述のように選手を心配した地元の人たちが松明を持って伴走するなど協力があったので、結局は近道をするチームはなく、全チームが無事に走り終えることとなった。山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいたという。1925年の第6回大会で、日本大学は選手の代わりに襷をもらった人力車夫が走ったこともあり4人抜きを見せたが、翌年の出場を辞退せざるを得なくなった(人力車夫事件)。勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずり込んだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった。なお箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績がよく掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある模様である。このように、かつての成績については資料によって若干の違いが見受けられる。第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。第二次世界大戦前から終戦直後に掛けては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった。そのため、戦後すぐのころまでは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技である短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方で、ラグビーやスキーの選手が登場した例も多かったという。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、第82回(2006年)・第83回(2007年)大会に出場した亜細亜大の岡田晃や第84回(2008年)・第85回(2009年)・第86回(2010年)に出場した大東文化大の清野篤のように大学から陸上競技を始めた選手もいる。また、1970年代ごろまでは実業団経由で入ってきた選手も多かった。モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長のころ。全国的な知名度はまだ低かったがコース沿線地域での人気は高かったため、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は第78回(2002年)まで続いた。1960年代から1970年代に掛けては体育系学部を擁する大学が台頭してきたが、この頃は学生運動の時期と重なり、それが好成績にも影響しているとの説もある。以下のような表彰がある。表彰(優勝校・入賞校・区間賞・金栗四三杯等)は「閉会式」の会場で行われるが、往路優勝の表彰については芦ノ湖の特設会場の「往路表彰式」で行われる。閉会式は1月3日の大会終了後によみうり大手町ホールで行われている。第78回までは陸上自衛隊が担当。陸自撤退後の第76回からは三菱自動車が運営車両を提供していたが、リコール隠し騒動の影響で第79回(2003年)をもって撤退。第80回(2004年)から第86回(2010年)まではホンダが運営車両を提供した。この間、ホンダが開発中の燃料電池自動車の冬季公道走行試験の為、同社のFCXおよび後継車種のFCXクラリティを先導車・大会本部車として投入した。但しホンダはトラック・バスを製造していない為、同時期に、トヨタ自動車も報道カメラ車としてハイブリッド・ディーゼルトラックのダイナハイブリッドを提供している。ホンダが第89回(2013年)まで車両提供契約を締結していたが、第87回(2011年)から第92回(2016年)までトヨタが運営車両全て(医務車と一部の車両を除いてハイブリッドカー)を提供しており、両社のハイブリッドカーPR競争激化にも繋がっている。各チームの運営管理車はホンダがASIMOのステッカーを左側面に、トヨタは各チームのたすきと同じ色のストライプを87回では車両上部に、88~89回では車両上部と前後に、90回では車両上部と前後に加え左側にも掲出している。また、84回からは運営管理車にスピーカーが取り付けられるようになった。運営管理車の運転は系列の自動車教習所の指導員が担当し、ホンダ時代はレインボーモータースクールが、2015年現在はトヨタドライビングスクールが担当する。大会を支えているのは関東学連に加盟している加盟校である。創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている。箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣される(過去には末續慎吾、為末大なども走路員としてスタッフに加わった。また、第89回(2013年)の往路はディーン元気が3区の茅ヶ崎で早大選手に水を渡す係として加わった)。このことからも分かるように、箱根駅伝は実は単に長距離選手だけで行われているのではなく、多くの裏方に支えられている。その裏方とは種目は違えど、一緒に汗を流すチームメイトでもある。ユニフォームが白地に紫(藤色)のラインが入った駒澤大学と、紺色の順天堂大学が激しい優勝争いを繰り広げていた2000年前後に使われていた言葉。第75回(1999年)から第84回(2008年)までは、亜細亜大学が優勝した第82回(2006年)を除き、駒澤大学、順天堂大学のいずれかが制している。第81回(2005年)で5区を担当した順天堂大学の今井正人が山上りで11人抜きを達成した際に、実況で「山の神が降臨しました」と言われた。これは当時同じ5区を担当した日本体育大学の北村聡が、「今井さんは神様のような存在です」と言ったことに由来する。今井は3年間、山上りの5区を担当し2年目以降は「山の神・今井」という言葉で常に紹介された。その後、第85回(2009年)で5区を担当した東洋大学の柏原竜二が今井の記録を破る区間新を達成した際には、実況で「山の神を越える山の神童がここに誕生」と言われた。さらに第86回(2010年)で柏原は7位で襷を受けた後、自己記録を10秒縮め2位に3分38秒差を付ける快走を見せ「新・山の神」と言われ、紙面などではその名前と箱根芦ノ湖にちなみ「竜神」とも表された。今井・柏原共に福島県の浜通り地方(今井は南相馬市、柏原はいわき市)の出身である。第91回(2015年)から函嶺洞門が崩落の恐れで通行禁止となり従来のコースの記録は参考記録となった。新コースで青山学院大学の神野大地が柏原の記録を24秒上回るタイムで走りきり、3代目「山の神」と呼ばれるようになった。ラジオ解説の柏原竜二も「これで御役御免です」と発言した。走者によっては、たすきを次走者へ渡したあと、コースへお辞儀をする選手がいる。これは箱根駅伝へ出場でき、無事に走れたことへの感謝を示す行為で戦前から行われている習慣である。従来は個人的な行為であり、チーム全体としては行われてこなかったが、第85回(2009年)に東洋大学が優勝した際、前年に元部員による不祥事があったにもかかわらず関係者の配慮などで出場できたこと、そして沿道で暖かい声援を送ってくれた全ての観衆へのお礼として自粛した胴上げのかわりに行われた。東洋大学は第86回(2010年)、第88回(2012年)に総合優勝した際も胴上げの前にまずコースに向かって監督・コーチ・選手全員で御礼をした後に胴上げをしている。ここ数年、優勝争いのレベルが急激なペースで向上しており、第87回(2011年)で優勝した早稲田大学の優勝タイムは、総合記録を3分以上更新し、現行コース・区間割(当時)で初めて11時間を切った。そして早稲田大学とはわずか21秒差で2位の東洋大学、3位の駒澤大学も、従来であれば十分に優勝出来るレベルのタイムであった。第88回(2012年)では高速化はさらに進化し、優勝した東洋大学の総合タイムは、前年の早稲田大学の記録を8分以上更新する10時間51分台であった。5区の山登りを(柏原が走ったとはいえ)加味してもなお、全区間の1kmラップが3分を切るという、驚異的なタイムだった。4位早稲田大学でも11時間3分台前半でフィニッシュしており、優勝争いするには11時間前後の実力が求められるようになってきている。第90回(2014年)に至っては、10時間52分台で優勝した東洋大学だけではなく、2位の駒澤大学も11時間台を切る10時間57分台でゴールした。第91回(2015年)は、優勝した青山学院大学は初めて10時間50分を切る10時間49分台でゴールした。優勝を目指す大学にとっては、「つなぎ区間」という概念は無くなりつつあり、全ての区間が「重要区間」「エース区間」と位置づけられるようになってきており、いかに力のある選手が万全の体勢で走れるかが鍵となっている。一方、ハイペースに付いて来れない下位の大学にとっては繰り上げスタートのリスクが非常に高くなっており如何にタイム差を抑えて母校の襷を繋ぎきれるかが焦点となっている。実際、高速化が顕著になった第88回大会以降、翌89回大会を除いて4チーム以上が復路の鶴見中継所で繰り上げスタートになっている。2005年3月には芦ノ湖畔に箱根駅伝を題材にした箱根駅伝ミュージアムがオープンした。スポーツを題材にした博物館は多いが、1つの行事として博物館化されることは極めて珍しい。運営は富士屋ホテルが行っている。箱根駅伝復路の翌日から2日間、出場した大学の学生たちなどがゴミ拾いして同じコースをもう一度歩く。1998年に神奈川大学のウォーキング活動を復活させる動きがきっかけとなり、2006年に「大学対抗・ゴミ拾い」の形式でリニューアルされた。「もう一つの箱根駅伝」と呼ばれた。日程は往路の5区間を2日に分けて行い、1日目が東京・大手町から神奈川・平塚までの3区間。2日目は平塚 - 箱根の2区間をゴミ拾いしながら歩く。順位は1袋10Pで半分だと5P。到着時間は最後のチームを基準とし、1分早いごとに1Pが加算される。チーム人数は原則5人だが、5人集まらない限り3人1チームで参加が認められる。当初は大学のみだったが現在は一般の参加も可能となり箱根駅伝に出場できない女性や社会人、海外からのチームも参加している。2011年に「もう一つの東海道駅伝」と名称を改め、京都・三条大橋までのゴミ拾い駅伝を実施。東京 - 神奈川間以外に活動を広げた。箱根駅伝は日本のスポーツの中でも長い歴史を持つイベントである。そのために様々なエピソードが生まれた。箱根駅伝は、1987年以後の全国完全生中継(日本テレビ)による人気沸騰により、多くの問題が浮き彫りにされてきた。以下に主要な議論をまとめる。なおこれらを解決すべく、関東学連に設けられた「駅伝対策委員会」の存在に期待が集まる。テレビの全国生中継開始とともに登場してきた山梨学院大学は、出場3年目にしてアフリカ人留学生の選手を呼び入れた。主催者側の判断により箱根駅伝を外国人選手が走ることができるようになり、その圧倒的な走りで新風を巻き起こした。1980年代後半からレース全体のスピードアップが進んだことにも、留学生の登場が大きく影響している。既に全国高校駅伝やニューイヤー駅伝では、外国人選手の起用制限事項(1チームあたりのエントリー数、起用区間の制限など)があり、箱根駅伝においても第82回(2006年)からは、前述の内規第9条を変更し、16名のエントリー時点では2人まで登録可能だが、実際に本番で走ることができるのは1人に限ると決められ、2005年秋に実施された予選会より適用されている。2006年以降本番で留学生を2名エントリーしたのは山梨学院大学(第85回 2009年・第92回 2016年)、日本大学(第86回 2010年・第89回 2013年・第92回 2016年)、拓殖大学(第87回 2011年・第88回 2012年)の例があり、いずれの例も、実際に本番で走ったのは1名のみで、もう1名は補欠選手となった。なお、三大大学駅伝の残り2つのうち「全日本大学駅伝」では2011年より箱根駅伝と同様、人数規制が行われることになったが、「出雲駅伝」においては規制がない。なお、ニューイヤー駅伝ではアフリカ系外国人選手を擁している実業団の数が多いものの、箱根駅伝でアフリカ系留学生が走ったのはこれまで山梨学院大学、亜細亜大学、平成国際大学、日本大学、拓殖大学、東京国際大学の6大学しかない。なお、白人、アジア系留学生選手として選ばれ出場した例はほとんどなく、近年ではわずかに日本育ちのフィリピン人である座間マボロベネディック(後に帰化し、現:座間紅祢)が専修大学で走った。また、在日韓国人では、現解説者の金哲彦が早稲田大学在学中、木下哲彦という通名で走ったことがある。大学経営策の一環として、箱根駅伝にPR効果を期待する大学が増えている。そのため「陸上競技部」と称しながら実際には長距離部門を中心に運営している大学や、挙句の果てには「駅伝部」を称する大学、「陸上部監督」とは別に、駅伝に特化した「駅伝監督」なるポジションが存在する大学も見られる。予選会に出場する大学の中には予選会に全力を傾けるため、インカレへの出場に消極的になりがちな大学もある。予選会の成績に関東インカレのポイントを導入した背景には、上記の「駅伝偏重」対策が大きく影響している。主催者側も箱根駅伝を「世界に通じる陸上競技者の育成」としており、その原点に立ち返る意味で導入した。このシステムは導入時から物議を醸しており、関東学連も導入後5年を経過した2007年を機にシステムの再構築も考える可能性を残した。一方で廃止論などに対し沢木啓祐は「たまたま同じ大学が悲劇の対象になっているだけ」という見方を示し、既に導入から5年経過しており各大学とも対策を練っていると廃止論を一蹴。青葉昌幸も「出場枠増にも様々な経緯があるだけに、そのような事情を知らないで(落選したチームが)かわいそうだと言われても困る」とコメントしている。総じて関東学連側は、見直し論については当初の予定どおり検討。第84回(2008年)の予選会よりポイント方式が変更されたものの廃止には否定的な見方を示していた。インカレポイントについて、第86回(2010年)終了時から廃止・継続又は新制度の導入などの議論を重ねた結果、2012年6月6日に行われた関東学連代表委員総会において、第89回(2013年)は現行どおり実施、第90回(2014年)は不採用とすることが決定された。第91回(2015年)以降については、廃止・継続のいずれの可能性も残し、継続して検討を重ねたところ、2013年6月10日の関東学連代表委員総会で「インカレポイントは5年に1回の記念大会にのみ採用する」と決定された。具体的な運用については今後決定するとしている。現在検討されている方式は予選会の枠とは別個に予選会が免除される「インカレポイント枠」の創設である。この方式では、直近5年間の関東学生対校選手権の総合順位とエントリー人数をポイント換算して上位1位の大学が本戦の出場権を獲得することになる(時事通信社の報道による)。2014年3月31日の関東学連代表委員総会において、従来の関東インカレポイントにかわって、第95回大会からの5年ごとの記念大会において5年間の総合成績の累計が最も多い大学に出場権を与える関東インカレ成績枠が創設されることが正式に決定された。箱根駅伝を出雲駅伝・全日本大学駅伝とともに「大学三大駅伝」と並び称する人やメディアも少なくないが、出雲駅伝と全日本大学駅伝が全国大会(主催:日本学連)なのに対し、箱根駅伝は日本学連傘下の一組織である関東学連が主催する地方大会にすぎないため、大会としての格は明らかに下である。しかし、近年では関東の各大学が、年間の最大の目標を箱根駅伝に置く傾向が強く、そのため、全国大会で本来最も権威の高いはずの出雲駅伝と全日本大学駅伝を、単なる箱根駅伝の前哨戦又は調整試合という意味合いで戦い、必ずしもベストメンバーを送り込まない大学も少なくない。また、地方大会であるはずの箱根駅伝が学生駅伝最大のイベントになったことで、他の大学スポーツと同様、長距離の人材の東京一極集中が起こっている。このほか、関東地区の地方大会がゆえに当大会の出場は原則として関東学連の加盟校に限られる一方、テレビ報道の影響により箱根駅伝が全国的に知名度が高いスポーツイベントになったことで、他地域の大学にも門戸を開くべきであるという声がしばしば発生する。関東学連では1960年代に予選会への出場を他地域のチームに開放することを検討したことがあるが、予選会への参加を全国に開放した場合には全国大会となるため、大会の主管を日本学連へ移す必要が生じる。開催の主導権が変わることを避けたかった関東学連有力校のOBらが中心になって反対したため、結局この時の門戸開放は実現しなかった。この動きを受けた他の学連は、関西学連・東海学連が中心になり、箱根より高い権威を持つ全国大会を創設する目的で全日本大学駅伝の創設に導いた。こうした事情があるため、関東学連は全日本大学駅伝の創設に最後まで反対。これ以降は箱根駅伝を関東以外の大学に開放しようという意見は消滅することになる。なお、第90回(2014年)では記念大会による増枠分3枠を関東以外のチームに与えるとの報道がされていたが、学連選抜としてなのか単独チームとしてなのかは明らかにされていなかった。結局、上記の学連選抜チームの記載のとおり、関東のチームのみとなった。しかし近年、全日本大学駅伝の出場校が関東の大学と他地域の大学で実力差が如実に出るようになった。これは男子学生陸上競技界特有の現象であるとされる。上位をほぼすべて関東の大学が占める一方で、地方から出場している大学が半分も行かない地点で既に繰り上げスタートになってしまう事態が発生するに至って、全日本大学駅伝の権威が著しく低下している。文部科学省では現在でも、全国大会は、実力本位の選手権大会と、選抜大会の2つしか開催しないよう学生競技団体へ指導を行っており、箱根駅伝が国内の全大学に門戸開放されると、全国大会として運営されている出雲駅伝および全日本大学駅伝との関係が問題となる。しかし現実には箱根駅伝が、現存する日本の駅伝では最も古い歴史を持つ大会であり、知名度も高いことを勘案すると、長年にわたり主催してきた関東学連が当大会を手放すことは考えにくい。2010年1月に行われた監督会議では、関東学連選抜枠を「廃止」もしくは「『全国』にも門戸を開く」案を含めて見直しの方向に入るとマスメディアによって報じられ、第89回(2013年)までは存続した。それ以降については学連選抜チームの記載を参照。従来はテレビ東京によるゴールのみの放送だったのが後述の通り1987年から日本テレビによる全国ネットでの完全生中継が始まると、大学側の宣伝・PR的な側面も見せ始め、結果的に勝負至上主義的な駅伝競走となっていった。その結果、下記のような弊害を見せ始め「不要論」として語られるようになっている。箱根駅伝で大活躍した選手が卒業後故障や不調に悩まされ、期待されたほどの活躍ができずに引退するケースが度々見受けられる。例えば早稲田大学時代に箱根駅伝で4年連続区間賞(区間新3回)を記録した武井隆次は、トラック、駅伝と季節を問わずフルに走り続けた影響からか卒業後は長い故障にさいなまれ、ヱスビー食品時代の日本代表歴は、29歳の時のアジア大会・マラソン代表のみにとどまった。中でも箱根駅伝不要論者が「箱根駅伝で燃え尽きたスター」の典型例として挙げているのが、2015年3月末まで早稲田大学駅伝監督を務めた渡辺康幸である。渡辺は早稲田大学在学時、箱根駅伝では2年次に1区区間新、3年次に2区区間新など華々しく活躍し、トラックでも4年次に世界陸上競技選手権イェーテボリ大会10000m12位、ユニバーシアード福岡大会10000m金メダルと輝かしい成績を残した。しかし過密スケジュールによる慢性疲労が徐々に体を蝕み、卒業前に予定していた東京国際マラソンは欠場に追い込まれ、急遽出場したびわ湖毎日マラソンも7位に終わった。ヱスビー食品入社後アトランタオリンピック10000m代表に選ばれるが、左アキレス腱の故障で欠場。以降度重なるアキレス腱の故障に苦しみ、2002年に29歳の若さで引退した。また、箱根駅伝5区で4年連続区間賞を獲得し、「山の神」と呼ばれた東洋大学出身の柏原竜二が、実業団入りしてからは目立った活躍ができていないことに対し、本来スピードを身につけるべき時期に駅伝の練習ばかり行い、スピードが身につかなかった結果とする意見もある。柏原の前に箱根駅伝5区で活躍し、「元祖・山の神」と称された順天堂大学出身の今井正人も、東京マラソンで日本歴代6位の記録をマークするまではマラソンで思うような結果が残せず、箱根駅伝の弊害ではないかと指摘されていた。逆に、箱根駅伝不要論者が箱根駅伝を走らずに世界に通用した代表とした挙げる選手の筆頭が、2015年4月よりカネボウ陸上競技部で監督を務める高岡寿成である。高岡は洛南高校時代、トラックレースで目立った実績は無かったが、3年連続で全国高校駅伝に出場し、3年次に4区で当時の区間新記録を樹立する等ロードでの実績はあったことから、関東の大学からもスカウトを受けていたが全て断り、関西でも強豪とは言い難い地元・京都の龍谷大学に進学した。大学1年次は10000mの自己ベストが30分台だったが、学年を重ねることにトラック中心の練習の成果により記録を伸ばし、大学4年次には5000mの日本記録を樹立した。実業団に入社後も、1年目の1993年に10000mで自己ベストとなる初の28分台を記録すると、翌年には初の27分台を記録するなど活躍し、1996年には念願であったアトランタオリンピックのトラックでの出場を果たす。特に90年代後半から2000年代前半にかけてはキャリアの全盛期を誇り、3000m、5000m、10000mで日本記録を次々に樹立し、2大会連続出場となったシドニーオリンピックでは10000mで7位入賞の好成績を挙げ、2001年には10000mで日本記録を樹立した。その後マラソンに転向し、2002年のシカゴマラソンで日本記録を樹立。世界大会でのメダルこそ獲得できなかったものの、30代後半まで第一線で活躍を続けた。このうちマラソンは現在でも日本記録保持者である。また、山梨学院大学出身の尾方剛は、箱根駅伝では2年次に10区で区間賞を獲得し、山梨学院大学の優勝に貢献したものの、大学時代を通して故障続きで箱根駅伝の出場はその1回だけに終わり、実業団入社当初まで目立った活躍はなかった。しかし、その後本来の力をつけ始めると、フルマラソンで入賞を重ね、2004年12月の福岡国際マラソンで念願のフルマラソン初優勝を果たす。これにより、世界陸上ヘルシンキ大会男子マラソン代表に即内定となった。そして翌2005年8月の本大会では、2時間11分16秒の好成績で日本人トップの3位入賞、銅メダルを獲得した。なお、尾方を最後に現在まで世界陸上、およびオリンピックで日本人選手でメダルを獲得した選手は現れていない。また、ソウルオリンピック、バルセロナオリンピックで4位入賞した中山竹通、そのバルセロナオリンピックで銀メダルに輝いた森下広一も箱根駅伝未経験者である。また、箱根駅伝創設の目的は「世界に通用する長距離選手の育成」であるが、実際には多くの選手が箱根駅伝を最終目標としており、卒業後は実業団に進まず競技の第一線から退くのが現状である(区間賞・区間新記録を樹立した選手も例外ではなく、一例として6区の山下りで58分06秒という驚異的な区間新記録を樹立した神奈川大学出身の中澤晃や、日本学連選抜として5区で区間賞を獲得し、初代金栗四三杯を受賞した筑波大学出身の鐘ヶ江幸治、8区で2度区間賞を獲得し、4年次には青山学院大学の初優勝に貢献した高橋宗司等がいる)。ただし、学習院大学で学連選抜ランナーとして出場した川内優輝のように、公務員と市民ランナーを両立しながら、実業団の選手に引けをとらない活躍を見せる選手もいる。箱根駅伝という大きな目標があるからこそ、モチベーションを保っ
出典:wikipedia
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