水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 2014年7月28日)は、京都府舞鶴市出身の実業家、民法学者。日本興業銀行勤務を経て、そごうの会長、社長を務めた。東洋大学名誉教授、法学博士。担保法の権威としても知られた。拓殖大学予科を経て、1936年に中央大学法学部を首席卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行。入行後は当時福島市にあった東北支店に配属。1939年に本店証券部信託課に配属。証券部次長、中小工業部次長、特別調査室部長待遇考査役等を歴任。1953年に「浮動担保の研究」で法学博士号取得。この論文が後に「企業担保法」という法律に結びつく。この頃から1983年まで東洋大学法学部教授兼務。中央大学非常勤講師も兼務した。1983年4月1日東洋大学名誉教授。弟子に浅野裕司(東洋大学名誉教授)や小林秀年(東洋大学教授)、河村博旨(函館大学教授・学長)等。私生活では東北支店時代の1938年に結婚、翌年には男子を儲けたが1943年に協議離婚。その後1945年に陸軍中将の娘である上原静と再婚した。1958年にそごうに副社長として入社。そごうは、妻・静の兄(義兄)の宮吉がそごうの大株主の1人である板谷家に養子に行っていて社長を務めていたが、同じく大株主の富士木材貿易社長・有富光門が主導した東京・有楽町(現在のビックカメラ有楽町店)への出店が振るわず、板谷家を代表する形で経営陣入りしたものである。なお、この時主力銀行の大和銀行から若狭三良が副社長として派遣、社長には丸物から坂内義雄を招聘した。入社して直ぐに、懸案の東京店の家賃交渉を正力松太郎率いる読売新聞社相手に開始。当初は正力から罵倒され坂内と若狭が手を引いて水島単独で交渉する破目になったが、1959年7月に売上の5%という賃貸料(従来の半分以下)で決着。この後に正力と親しい関係となり、「有楽町の帝王」と呼ばれるきっかけを作った。1960年に坂内社長が死去すると、同じ副社長の若狭と後継争いが勃発。後継争いはマスコミに取り上げられ、大宅壮一から「財界松川事件」と命名されるまでになった。結局、若狭が社長に就任するものの、その後大和銀行側が子会社を含め10%超のそごう株を所有していることが独占禁止法として問題化。この点をつく格好で、1962年に水島が社長に就任した。その一方で当時は大阪店、神戸店、そして規模が小さい東京店(有楽町)の3店しかなく、「二流デパート」を抜け切れないでいた。有楽町に続く店舗を東京に進出したかったが、都内の出店は年々投資額が増すばかりだった。そんな中、知人からアメリカの小売業で成功したレインボーの法則なる経営戦略を聞く。レインボーの法則は大都市から一定の距離を置いて虹のように取り囲んで出店すれば成功する戦略。東京から虹のように架けられるラインと言えば国道16号で、これが後のそごうにおける重要な経営戦略となった。1967年3月に4店目となる千葉そごうが開店。この際、そごう本体とは独立した形で「株式会社千葉そごう」を設立し、会長に水島が就任した。日本各地に次々と出店するそごう各店を別会社とし、その株式を千葉そごうが握る形で、そごうグループを牛耳った。1972年河本敏夫率いる三光汽船が地場証券を通じてジャパンライン(以下ジ社と略)の株を買い占めている動きが見られた。一方ジ社もメインバンクの日本興業銀行などを通じて防衛策も講じたが、当初50円ほどの株価が900円台にまで跳ね上がる事となった。その間にジ社は児玉誉士夫を調停役として仕向けたが解決の糸口が見つけられなくなった。一方の三光汽船も強引な買占めに対する批判や政府の圧力で動こうにも動けない状況であった。結局、三光汽船が買い占めたジ社の株は『1株380円』(水島の証言)で売却する運びとなったが、この調停に乗り出したのが水島であった。水島は三光側、ジ社側に人脈を持っていたから解決に結びつけた。河本敏夫とは三光汽船常務の岡庭博の仲介で知り合った。岡庭と水島は興銀から実業界に転じたため親しい関係であった。一方の児玉との繋がりは児玉と並んで戦後最大のフィクサーと呼ばれた大谷貴義(福田赳夫や松下幸之助との繋がりで有名)との関連もある。大谷は福田を総理大臣にするために政財界の大物を招いての茶会を開いていたが、興銀との繋がりが深かった福田との繋がりで茶会に招かれた事もあった。一方大谷は韓国系の暴力団との往来もあり、そこで知り合った児玉との結びつきができる。1960年代には全国に3店舗しかなかったそごうグループは、水島の手腕で1990年代には日本全国に30店舗を抱えるまでに成長する。その頃には1兆数千億円の貸し出しを受けていた。しかし1991年10月、30店目の川口そごうオープンを境に経営は徐々に悪化。1994年水島はそごう社長から退き会長となる。興銀と日本長期信用銀行から送り込まれた2人の副社長が変わってそごうの表の顔となった。しかし、バブル崩壊で経営が悪化した他の百貨店と同じく、そごうも経営危機が囁かれるが、各店舗が株を持ち合う複雑なそごうグループの実態は水島しか把握できないとされ、メインバンクの日本興業銀行の介入を許さず、バブル崩壊後も水島が引き続きそごうグループを牛耳り続けた百貨店業界の他社幹部は「行け行けどんどんの時は(そごうを)脅威に感じたものでした。しかし景気が下降曲線を描くに従い、土地の含み益を利用した作戦が裏目に出た」と語った。また水島の教え子である函館大学学長の河村博旨は、「水島先生の理論は、要するに信頼関係の尊重。企業がずっと続いていくことを前提にして、丸ごと評価して金を借りられるようにした」と説明している。土地は必ず値上がりするという土地神話に頼った水島の出店方針は、バブル崩壊で行き詰まる。2000年にそごう会長も辞任。その直後にそごうは1兆8700億円の負債を抱えて倒産する。放漫経営を疑う追及に対しては、水島は「堅実経営だった」として法律の専門家の立場からも反論し、破綻の原因としてバブル崩壊と旧日本長期信用銀行の破綻を予測できなかったことを挙げた。そごうの民事再生法申請に基づく財産保全命令と、1997年の錦糸町そごう出店時に個人で連帯保証した債務についての負担を日本興業銀行から求められ、水島の個人資産に対して差し押さえ命令が出たが、そごうグループ倒産前に1億円余りの個人資産(地銀口座の預金と投資信託)を解約・現金化し、その金銭を自宅内などに隠したとして2001年5月に強制執行妨害容疑で89歳ながら、逮捕される。2003年10月に東京地裁で連帯保証分について125億円余りの支払命令判決が下される。また、上場会社の旧そごうが違法配当を続けたとして元株主が水島元会長と監査法人に対して告訴したが、責任は問われなかった。2006年8月に強制執行妨害罪で懲役1年6ヶ月執行猶予4年の有罪判決が確定した。一連の捜査に対して、中央大学講師時代の水島に教えを受けた弁護士や商法の専門家があつまり、大弁護団を結成した。有楽町そごう(そごう東京店)従業員たちが集う親睦会である有楽ちぎり会のサイトにて、同主催の百寿をお祝いする会に招かれている様子や、定期的に開かれている親睦会の第10回目(2014年5月)にも102歳のお祝いをされている車いす姿の本人の様子が写真で確認されていた。世田谷区下北沢にある豪邸に居を構えていたが、晩年は聖路加タワーの介護付マンションで暮らしていた。2014年7月28日、心不全のために死去。。
出典:wikipedia
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