ティミショアラ( ルーマニア語、ハンガリー語: テメシュヴァール、ドイツ語: テメシュブルク、セルビア語: テミシュヴァール、トルコ語: または タムシュヴァル)は、ルーマニア西部トランシルヴァニア地方の都市。行政的にはバナト地方に属し、ティミシュ県の県都で、ルーマニア第4の人口を誇る。都市の名はティミシュ川に由来する。ティミシュ川は古代ローマではティビシスまたはティビスクス川として知られていた。ティミショアラには多数の少数民族がおり、多文化都市となっている。ティミショアラの主な少数民族は、マジャル(ハンガリー)人、ドイツ人、セルビア人であるが、イタリア人、パレスチナ人、ギリシャ人も居住する。ティミショアラは工業都市であり、またヨーロッパで最初に電気による街路灯が導入されたことで知られる。1019年、ティミショアラは初めて文献に登場したと考えられている。これは東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世によるもので、ディビスコス、ビシスコス、ティビスコス、ティビスコン、ティビスコ等々の名称が使われていた。しかし歴史家のなかにはこれらの名称を現在のティミショアラと結び付けないものもいる。市の名前の最初の表示は1177年の記録に記述されている"Castrensis de thymes"で、これはこの地域を流れているティミシュ川の名前に基づいている。「ティミショアラの砦」("Castrum Temesiensis")の最初の記載は、1212年の日付のハンガリー国王アンドラーシュ2世の布告に見られる。1307年、ハンガリーの王カーロイ1世がティミショアラを訪れ、石の要塞を建設した。1315年から1323年の間、カーロイ1世の宮廷は、ハンガリー王国の首都になったティミショアラへ強制的に移動させられていた。この短い期間は、市に発展をもたらした。14世紀の中頃からは、ティミショアラはオスマン帝国軍と西側のキリスト教国の戦いの最前線になった。1443年から、フニャディ・ヤーノシュはティミショアラに強力な要塞を建設し、トルコ人に対する軍の拠点として使用した。都市は、1462年、1476年、1491年そして1522年に、オスマン軍によって繰り返し包囲された。ハンガリーは1526年にモハーチの戦いで壊滅的な損害を被ったが、ティミショアラは1551年10月までオスマン帝国に征服されることはなかった。オスマン帝国に侵略された後、市は、オスマン行政区・テメシュヴァル州()の中心地になった。要塞は再建され、ベオグラードと共にオスマン軍の重要な軍事基地として使われた。軍の方針により、都市自体はオスマンが管理していた間、ゆっくり発展していった。ティミショアラには、木と石の城壁に囲まれた、城と都市の2つの要塞化された場所があった。城壁の周囲の堀と、200丁の銃が都市を守るために用いられた。城壁の中にはおよそ1,200の家、学校、ホテルと公衆浴場が建てられており、一方城壁の外には、他におよそ1,500の家が存在していた。1716年10月12日、墺土戦争でオスマン軍はプリンツ・オイゲンに率いられたオーストリア軍によって市から追い払われた。ティミショアラは1718年のパッサロヴィッツ条約により、オスマン帝国からハプスブルク帝国(オーストリア大公国)に公式に譲渡された。1720年のデータによれば、町の大部分の住民はセルビア人で、そして少しのルーマニア人がいたが、後にドイツ人、イタリア人、スペイン人の移民が、この地域に定住するために連れて来られた。ハプスブルクの支配下で、1723年に、新しい石の要塞が都市の周囲に建設された。城壁の中に家、病院、学校と教会が建てられる一方、市の外には工場が作られた。また、ベガ川とティミシュ川が管理され、都市の周りの湿地帯が埋め立てられ、ベガ運河が作られた。この期間には、強力な経済発展と人口増加があった。ティミショアラはオーストリアでも重要な都市のうちの1つであり、1781年、王立自由都市となった。この時期、しばしばティミショアラは「ティミシュの上の城(Burg)」を意味するドイツ語の名前"Temeschburg"(テメシュブルク)またはハンガリー語のに基づいた"Temeschwar"(テメシュヴァール)と呼ばれた。1848年革命の後、市はセルビア軍によって占領され、1849年に、ティミショアラは「セルビアのヴォイヴォディナとタミシュ・バナト」()と呼ばれる新しいハプスブルク行政区の中心地になった。第一次世界大戦の後、1918年に一時的にバナト共和国となり、その後、市内へセルビア軍が侵入してきたが、1919年、ティミショアラは大部分のバナト地域と共にルーマニア王国の一部となった。1989年12月16日、ニコラエ・チャウシェスクの指導する共産党政権に対する蜂起がティミショアラで起こった。ハンガリー改革派教会の牧師を解任しようとした秘密警察に対して、市民がテーケーシュを支援したのである。このティミショアラの蜂起はルーマニア革命の始まりとなり、1週間後のチャウシェスク政権の崩壊とルーマニアの自由化へと繋がるターニングポイントとなった。同年12月20日、ティミショアラはルーマニア最初の自由都市と宣言された。報告された革命の間の死者は1,104人、負傷者は3,352人であった。ティミショアラは、ハプスブルク帝国が統治を始めた18世紀から、強力な経済の中心地であった。オーストリアの領土となることにより、民族的・宗教的な多様性と法律の革新が起こり、経済が発展し始めた。市に定住した技術者と職人はギルドを設立し、市の経済の発展を助けた。この時代に開かれたベガ運河は、近代ルーマニアの領土の中で、最初の航行可能な運河であった。これにより、市はヨーロッパ各国と、そして黒海を通じて世界と接触することになり、商業主義の発達に至った。また、ティミショアラはトランシルヴァニアの工業と文化の中心でありつづけた。1718年、バナトとトランシルヴァニアでは最初となるビール工場がティミショアラに建設された。ルーマニアで最初のタバコ工場も1728年に建設された。また1760年、オーストリア=ハンガリー帝国で最初の街灯が導入されたのもティミショアラである。これは蝋燭と油脂によるランプを用いたものであった。その後1884年には、道路に電気照明が設置されたヨーロッパの最初の都市になった。1857年には、ティミショアラとセゲドを結ぶバナト地方最初の鉄道が引かれた。今日のルーマニアで国際的な路線を持った最初の都市である。また、ティミショアラはハンガリー王国内で、後にはルーマニア王国で、最初に救急車が導入された(1886年)街でもある。近年、特にハイテク分野において外国からの投資の数がコンスタントに増加し、ティミショアラは著しい好況を享受した。それはルーマニアでブカレストに続き2番目に繁栄している都市としばしば考えられる。そして、いわゆる「ティミショアラ・モデル」が他の都市に適用できたかどうかについての活発な議論があった。2005年後半、フランスの雑誌"L'Expansion"の記事は、ティミショアラを「 ルーマニアの経済のショーケース(Timișoara Romania's economic showcase),」と呼び、「第2の革命」として、対外投資の増加数に言及した。いくつかの局地的な投資は別として、アメリカ合衆国からと欧州連合、特にドイツとイタリアからの相当に多くの投資がティミショアラに対して行われている。大企業のうちティミショアラに定着したものには、数年の間ここで操業したコンチネンタルAG(タイヤ製造)、リンデ (工業用ガス生産)、グループ(BMWとアウディの車両のための配線の鋳型の部品製造)、フレクストロニクス(モバイル通信と電子機器製造)、プロクター・アンド・ギャンブル、ネスレといった企業などがある。ティミショアラの公共交通機関網は、11の路面電車線、9つのトロリーバス線と15のバス路線から成り、 (RATT)によって管理される。 また、ルーマニア第2の航空会社カルパトエア()のハブ空港、トライアン・ヴイア国際空港が所在する。CFR(ルーマニア鉄道)の駅はティミショアラ北、ティミショアラ東、ティミショアラ西、ティミショアラ南があるが、メインの駅は北駅()で、ブカレストやオラデアに向かう国内路線の他、ベオグラード、ブダペスト、ウィーン、ミュンヘンなどと結ばれる国際列車も発着している。
出典:wikipedia
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