『笑ってる場合ですよ!』(わらってるばあいですよ)は、フジテレビ系列で1980年10月1日から1982年10月1日まで平日(毎週月曜日 - 金曜日)の12:00 - 13:00(JST)に生放送されていた帯バラエティ番組である。本番組は前番組『日本全国ひる休み』をリニューアルし、フジテレビ全体やランチタイム番組の改革を図るべく企画された新しい平日昼のお笑い番組であった。漫才ブームの仕掛け人・横澤彪(フジテレビ名プロデューサー)がプロデュースし、スタジオアルタからの公開生放送。司会のB&B(島田洋七・洋八)、レギュラーのツービート(ビートたけし・きよし)や紳助・竜介(島田紳助・松本竜介)ら(いずれも後に土曜日20時台の『オレたちひょうきん族』に出演)、当時の若年層に人気のあった漫才・コントタレントが続々と登場し、フジテレビの看板ランチタイム番組に育てあげ、番組スタイルが後番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』に受け継がれていくことになる。なお、タイトルの由来は、上司が「今、フジテレビは笑っている場合じゃないだろ!!(当時視聴率が全般的に低迷していた)」と言ったことにヒントを得た。後のバラエティ番組よりも過激な企画が多く、特にツービートが担当した「勝ち抜きブス合戦」は大顰蹙を浴びてしまった。そのことが2年で終了した原因とも言われている(漫才ブームの終息による影響とも言われる)。番組開始からしばらくおいて、1週間の主なコーナーなどを編集してまとめ、それをスタジオに招いた観客と一緒にB&Bが見ながら進行する番組として『もう一度笑ってる場合ですよ!』という総集編番組が日曜日にスタートしている(関東ローカルで放送がスタートし、後にテレビ静岡など数局が同時または時差でネット)。末期の1982年4月以降はB&Bが総合司会から月曜日の司会に縮小し、残りを各曜日別司会・レギュラーになった。※レギュラーが休暇や地方公演などで不在の場合は片岡鶴太郎・甲斐智枝美らが代役を務めた。そして、明石家さんま・西川のりお・島崎俊郎は後番組『笑っていいとも!』にて再登板を果たした。司会のB&Bの即席漫才から始まり、観客全員が「笑ってる場合ですよ!」とタイトルコールした後出演者全員が手拍子で登場。ナレーション(岩尾良二 → 水島裕)による出演者紹介の後、再びタイトルコール → 提供表示(一部地域のみ) → CM → 最初のコーナー ※●は末期のコーナーフジテレビほか一部のネット局ではこのコーナーの途中で下部に提供クレジットの字幕が流れ、以降はPT枠になっていた。劇団東京乾電池(柄本明・角替和枝・ベンガル・綾田俊樹・高田純次・小形雄二・大橋恵里子・岩松了・田岡美也子・六平直政・蛭子能収・松金よね子)が演じる時事コント(かつてこの枠で放送されていた『おとなの漫画』と同形式)将来お笑いをリードしようとする若手を育成するため日本テレビ系列の『お笑いスター誕生!!』に対抗した企画。タイトルは『スター誕生!』に対抗してフジテレビで放送されていた『君こそスターだ!』に由来する。このコーナーでは毎回アマチュア、あるいはプロでもまだブレークしていない無名のお笑いタレントに門戸を開放し、全国の視聴者からの支持が一定量集まれば合格で、これを5日間勝ち抜けばグランドチャンピオンとなるというものである。グランドチャンピオンに輝いた芸人が発表された後、天井に吊るされたくす玉が割れて大量の紙吹雪と風船が降り、観客からの拍手・歓声で新たなスターの門出を祝福された。コーナーからは山田邦子、ダウンタウン(当時は「ひとし・まさし」)や、ザ・ホープ、ハイヒールモモコ、そのまんま東(現:東国原英夫、当時は「オスカル・メスカル」)、大川興業、斉藤ゆう子(現・斉藤祐子)、越前屋俵太、プリティ長嶋、ポップコーンといった人材を輩出した。ちなみに後にフジテレビ編成制作局バラエティ制作センター部長となる水口昌彦が京都大学工学部電子工学科時代の1981年に、後に長崎放送アナウンサーとなる竹内淳と組んだ漫才コンビ「にっちもさっちも」で5日連続で勝ち抜き、11代目チャンピオンになっている。他にもフジテレビアナウンサー・牧原俊幸も素人として、島田洋七曰く自分の祖母(佐賀のがばいばあちゃん)やDJ KOO(TRF)等も番組に出演した。当時文化放送で放送中の『ザ・マンザイクイズ』の司会を担当していた当時同局アナウンサー・大野勢太郎(当時は「大野正」名義)が素人として「ぼんちの物まねグランプリ」に出演というハプニングも話題となった。日替りで当時最も売れていたお笑い芸人が持ちネタを披露。このコーナーからは全国ネットスポンサーになっていた。提供クレジット表示の時は、アルタ前の風景をバックに「笑ってる場合ですよ! さらに番組はつづきます」といったテロップが出ていた。洋七の「人は見かけによらぬもの!聞いてみなけりゃ分からない!ワカマッチャ〜!」のフレーズで始まるクイズコーナー(「ワカマッチャ〜」は、「バカ!」「ブリブリっ子だよ!」となる事もあった)。洋八がアルタ前に出向き、通行人を掴まえて洋七がその人にいろいろと質問。それがそのままクイズとなったもの。解答者は曜日別レギュラー・東京乾電池メンバー・ゲストが務めた。時折、放送時間の関係上、そのままエンディングに突入したこともあった。●末期では各曜日司会が務めた。エンディングでは、オープニングと同様に出演者全員が手拍子で登場。ナレーターが「それではまた明日(来週)」と言った後、出演者と観客全員が「笑ってる場合ですよ!」とコールし、CM → 提供表示 → 次回予告テロップが出て終了していた。番組終了には直接結びつかなかったが、放送日が祝日(成人の日)と重なった1981年1月15日には、殺到した観覧希望者(当時番組観覧は先着順で、中には小学生までいたという)が将棋倒しとなり、2人が負傷する事態になった。この結果、やむなく番組初の無観客放送となった(翌日の新聞には「笑ってる場合じゃない!」といった見出しで報じられた)。これが次番組の『笑っていいとも!』における観覧者制限にもつながっている。その事故の中には当時中学生だった玉袋筋太郎(浅草キッド)もいたという。1981年7月21日放送分と1982年7月21日放送分、「としまえん」にて公開放送を行った。系列は当番組終了時(1982年10月1日)のもの。なお、遅れネットや系列外での放送が登場するのは、後番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』であり、本番組までは同時ネットか非ネットのどちらかだった。
出典:wikipedia
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