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stampfactory大百科事典

臼(うす)とは、穀物の脱穀や製粉、餅つきなど用いる道具である。臼にはひき臼(碾き臼、挽き臼)とつき臼(搗き臼)の2種類がある。このうち、ひき臼は大きくサドルカーン()とロータリーカーン()に大別される。ひき臼、つき臼のいずれも、現代でも、人が動かすもの(人力方式)、水力を用いて動かすもの(水車小屋。水車)、風力を用いて動かすもの(風車小屋。風車)などがある。また、近年では電動式のものもある。ひき臼は、主に石製で、2つの石などをすり合せて、もみ殻がついた状態のコムギやソバなどの穀物を粉砕する。この他、灸に用いるモグサを製造する際、乾燥させたヨモギを粉砕するためにも石臼が用いられる。2枚の円板を重ねて、片方を回転させるロータリーカーンと、石板の上で石塊を往復させるサドルカーンに大別される。も参照のこと。日本語では「すりうす」・「鞍型臼」と言う。大きな板状の「下石」と、下石の幅に合わせた長さの棒状の「上石」が一対になっており、下石の上に少量の穀物を載せ、上石の棒を「床の雑巾がけ」のような姿勢で交互に動かし、挽き潰す。歴史が非常に古く、古代エジプト文明においてはこの方法で小麦を製粉し、パンを焼いた。そのありさまは多くの土偶や壁画に残されている。新石器時代の中国や朝鮮の遺跡からもすり臼が出土している。サハラ砂漠以南の「ブラックアフリカ」では20世紀でもこのサドルカーンで製粉が行われていた。アメリカ大陸においても、サドルカーンに類する製粉道具でドングリやトウモロコシを挽き、粥や蒸し団子、トルティーヤに加工していた。すり臼での作業は非能率なうえ、長時間にわたり前かがみの姿勢で力をいれる重労働であった。そのため回転式の臼や機械製粉が普及すると衰退したが、現代でもインド、中南米、アフリカなど多くの地域で使われる。石皿も参照のこと。ロータリーカーンとは回転式のひき臼のことである。小麦の栽培が普及し、やがて小麦を粉にしてから食するために発明された。最初はもっぱら人力で動かされ、次に牛馬の力も利用し、そして中央アジアで川の流れを利用する水車で石臼を回す水臼も開発された。水臼は、人類が手にした最初の自然の力を動力として使った機械と言える。ヨーロッパでも水車で臼を動かすことは一般的になった。またスペインやオランダでは風車で臼を動かすようになった。も参照のこと。つき臼は、木製または石製で、杵(きね)を用いて脱穀などを行うものである。餅つきにも使用される。つき臼の一種に碓(唐臼、踏み臼)がある。も参照。碓(たい)、唐臼(からうす)、踏み臼(ふみうす)は、中国で発達したつき臼の一種で、てこの原理などを利用して足で踏んで杵を動かすことによって精米や製粉、餅つきを行う足踏み式の臼。有史以前に日本にも伝来し、近年まで使われていた。東南アジア等にも広く普及し使われている。また、後漢時代には河川などの水を利用して精米を行う、水臼と同じ原理の水碓(すいたい)と呼ばれる大型の碓も利用された。水碓は大量の穀物を精製できるために、権力者の中には水碓を用いて、自分の土地の穀物のみならず他人の穀物の精製も受け持って(あるいは水碓そのものを貸し出して)利益を得るものもいて、一種の財産となった。西晋の時代に河内太守となった劉頌が、同郡には公主(同郡は晋皇室(司馬氏)の故郷で皇族の封地が多い)が勝手に水碓を設けて水路を切り開くために、一般農民の灌漑の妨害になっていると皇帝に訴えて、これらを全て壊したという(『晋書』)。だが、後にひき臼である水碾(碾を参照)の要素を加えて製粉も可能とした碾磑(てんがい/みずうす)が登場するようになると、その害はますます激しくなった。碾磑の初期のものはすでに後漢時代には中国本土から離れた楽浪郡でも発掘されているが、特に盛んになったのは唐の時代になってからで、貴族が自己の荘園内の河川や水路に碾磑を設置して専門の戸(磑戸)を設置して製粉業を行った。これは華北・中原においては粟の栽培を基本にしつつ水稲栽培も推進されていた均田制期の農業政策に対する阻害となることから、唐王朝は灌漑用水の妨害となる碾磑に対して厳しい態度で臨み、たびたび碾磑設置の禁令や実際の撤去が行われていたが、気候的・地理的条件において不利を抱えていた華北における稲作政策が次第に放棄されて、代わりに小麦栽培が奨励されるようになったことに加え、均田制の解体と、それに替わって華北・中原において粟と小麦による2年3毛作を前提とした両税法への移行によって、碾磑規制の必要性が希薄となり、却って小麦の粉食に対応するために碾磑の設置に対する規制は有名無実化されていった。もちろん、水稲栽培地域では依然として碾磑規制は必要性をもって行われていた。中国歴代王朝政権にとって、こうした水碓・水碾・碾磑の利便性・財産的価値と一般住民の生活・農業用水の確保という相反する目的をいかに調和させるかが、洪水防止と並ぶ、"治水政策の最大の課題"となったのである。なお、日本にも推古天皇18年(610年)に来日した曇徴によって碾磑が伝来され(『日本書紀』)、天平19年(747年)に法隆寺と大安寺が作成した資財帳にそれぞれ「碓屋」と記された家屋の所有が確認でき、これが碾磑施設と見られている。

出典:wikipedia

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