香川 京子(かがわ きょうこ、1931年12月5日 - )は、日本の女優。本名は、牧野 香子(まきの きょうこ)。茨城県行方郡麻生町(現行方市)生まれ。東京都立第十高等女学校卒業。身長162cm、体重45kg。東京都出身。生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋に移る。小学校に入る1年前に東京に戻るも、女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、茨城県の下館に疎開するが、間もなく母親が麻生町に疎開したため、自らも麻生町に戻る。女学校時代は勤労奉仕ばかりで、勉強することはあまりなかったという。その後、1945年の終戦の年の10月に東京に移り住む。女学校卒業後の1949年東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格、新東宝に入社する。女学校卒業時に漠然と将来を考えた際に、当初は英語の勉強をしたいと考えたが、家庭の事情で断念。その後バレエの『白鳥の湖』を観賞してバレリーナになりたいと考えるも、専門家から目指すには遅すぎると指摘され、どうしようか考えあぐねている時に新聞のニューフェイス募集記事が目に止まり応募したという。この際、一般会社の入社試験も同時進行で受けており、最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまうが、母親の助言もあり、女優の道に進むことになる。1950年、島耕二監督の『窓から飛び出せ』でデビューする。芸名の「香川 京子」は、映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と香川自身が考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、また本名の「きょうこ」という音も用いられるこの芸名にしたという。日本の大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになった おかげで、各映画会社の映画黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。この多くの巨匠の様々な役に自身がキャスティングされたことについて、本人は個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思うと、謙遜して答えている。女優として多くの作品に出演しているが、『ひめゆりの塔』(1953年)への出演が転機になったようで、この作品に出会ってから女優としての意義を意識するようになったと語っている。この作品では監督の今井正から役作りのために、役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと後年、ラジオ番組の出演で述べている(NHKサービスセンター、『女優が語る私の人生』)。成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。また、溝口健二監督の『近松物語』でヒロインを演じ、この作品で初の人妻を演じたのだが、この当時の香川は未婚であったために、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったと言う。黒澤明監督の作品にも多く出演し、特に黒澤作品に出演すると、看板役者であった三船敏郎の恋人または妻役を演じることが多かった。2010年の黒澤明誕生100年にあたっては、仲代達矢と回想対談した(『文藝春秋』2010年7月号、「私たちのクロサワ悶絶体験 生誕100年」)。黒澤作品においては、三船敏郎と、女優としては最も多い9回の共演回数をほこる。『悪い奴ほどよく眠る』が特に思い出深いという。1963年の結婚後、1965年の『赤ひげ』出演して以降、出産、育児。そして新聞記者であった夫の海外赴任先ニューヨークへ同行し、映画の世界を3年ほど離れる。なおこのニューヨーク滞在時には、近所に日本人が多くいたおかげで、主婦業が大いに磨かれたという。またこのニューヨーク在住時に1965年北アメリカ大停電を経験している。1968年の帰国後は、テレビ・舞台へ主軸を移す。特にテレビドラマでは石井ふく子・橋田寿賀子両者の作品に多く出演した。映画撮影時の記念アルバムなどの資料は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、展示室で公開されている。そうした映画保存活動への貢献が評価され、2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で日本人初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与された。FIAF賞受賞記念として、映画祭で、「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、また、東京国立近代美術館フィルムセンターで、「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示された。
出典:wikipedia
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