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服部尚貴

服部尚貴(はっとり なおき、1966年6月13日 - )は、三重県四日市市出身のレーシングドライバー。1985年にスターレットでダートトライアルに出場し初レースで優勝する。翌1986年にフォーミュラカテゴリーのFJ1600へ参戦。1988年から全日本F3にステップアップして、1990年にはシリーズチャンピオンとなる。前述の通りデビューがダートトライアルであるが、その後フォーミュラのトップレーサーになったケースは非常に稀である。1991年には全日本F3000選手権にステップアップ。また同年にF1の日本GPとオーストラリアGPにコローニからスポット参戦したが、エンジン、シャシーともに戦闘力が低かった上にマシントラブルも発生したために予備予選通過を果たせなかった。この日本GPで予備予選中にマシントラブルでコースアウトしたが、その際にステアリングを投げ捨て車体を蹴ったため、その場面を目撃した中嶋悟から「仕事道具をあんな扱いにする者は大成しない」、「何があっても車を蹴るのはよくない」と苦言を呈された。2008年F1日本GPでのトークショーにおいて、「コローニから『いくらいくら出せばウチで走らせてあげるよ』と持ちかけられたが、個人交渉をして交通費からギャランティまで出させた。日本人ドライバーで持参金無しで乗ったのは自分が初めてだと思う」という旨の発言をしている。なおこれ以降F1に参戦することは無かった。その後、全日本F3000から発展した全日本選手権フォーミュラ・ニッポンには1996年のシリーズ発足時より参戦し、1996年シーズンではチームメイトのラルフ・シューマッハ、この年がフォーミュラカーラストイヤーとなった星野一義らと最終戦までチャンピオン闘いを繰り広げ、シリーズ2位となった。1997年と1998年はCARTのステップアップカテゴリーであるインディ・ライツに参戦し、1999年にはCARTにステップアップしたが、開幕戦のマイアミにおいてアル・アンサーJr.と接触してクラッシュし、左くるぶしの上とひざの下を複雑骨折した事により中盤の多くのレースを棒に振ったことが影響し、翌2000年シーズンから日本に復帰。フォーミュラ・ニッポンを再び主戦場とした。2000年から2002年まではTEAM 5ZIGENから、2003年から2005年はDoCoMo DANDELIONから参戦した。2001年シリーズには開幕4戦で3勝を挙げ、シリーズ2位となった。その後2005年をもってフォーミュラ・ニッポンから引退した。一方で全日本GT選手権/SUPER GTでは、1994年にムーンクラフトの日産・シルビアでGT-1クラス(現GT500クラス)に参戦しているほか、1996年にはGT500クラスでチーム・ラーク(チーム郷)よりラルフ・シューマッハとのコンビでマクラーレン・F1 GTRをドライブし、シリーズ2位を獲得した。その後前述のアメリカンフォーミュラ参戦のため、3年間のブランクが空くが、2000年の国内復帰の際にムーンクラフトがメンテナンスをしていた縁でチーム国光の「RAYBRIG NSX」で、高橋国光引退後のシートを射止め、シリーズに復帰する。2001年に免停処分で出場ができなかった星野一義の代役としてホシノレーシングに一時的に加入。その後プライベートチームの一ツ山レーシングに所属した後、2003年に今度はトヨタ系チームのKRAFTに移籍した。そこでダンロップワークスのドライバーとして活動。2006年シーズンから投入された新型のレクサス・SC430で、第3戦の富士スピードウェイにおいて優勝を果たした。これは、1996年最終戦美祢以来の優勝であった(ダンロップにとっても、1997年最終戦以来の勝利)。その後2度表彰台に上がりシリーズ9位となったものの、翌2007年にチーム、マシン共に大不振に陥り、同じダンロップタイヤを履くナカジマレーシングのNSXが1勝を含む3度の表彰台を記録し、ランキング2位を記録したのとは対照的に、シーズン中盤まで最新型マシンを手にできず、また新型投入後も熟成が進まず、入賞回数こそ9戦中5回を記録したものの、最高位は6位に止まり、この年を以てSUPER GTから引退した。結果としてGTでは自動車メーカーのワークスドライバーではなく、タイヤメーカーのワークスドライバーとして活動したため、トヨタ・レクサス、ニッサン、ホンダの3ワークス全てでドライブした、数少ないドライバーの1人である。2006年には、フォーミュラ・ニッポンのDoCoMo DANDELIONのオペレーティングディレクターに就任。2007年は本山哲の強い誘いにより、「Arabian Oasis Team IMPUL」に移籍しチーム監督に就任した。2008年は本山がTeam LeMansに移籍するのに伴い、服部もTeam LeMansの監督代行となっている。また2008年からは、SUPER GTの「ドライビングスタンダードオブザーバー」に就任し、レース中のアクシデント(マシン同士の接触等)があった際にペナルティ等の判断を下したり、シリーズに新規参戦するドライバーに課せられるルーキーテストの審査を行ったりしている(2010年からは岡田秀樹との2人体制)。若手ドライバーの育成カテゴリーであるフォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)においても、FCJのタイヤがダンロップのワンメイクである関係から、コントロールタイヤの選定を行ったり、シャシーに著しい個体差があると思われる場合にその性能差を実際に乗り比べて確認するなど、2006年のカテゴリー発足時からシリーズ全体のアドバイザーを務めている。このほか2005年よりレプリスポーツと提携して「Team Naoki」を発足させ、FJ1600・スーパーFJ・FCJ等の育成カテゴリーに若手ドライバーを参戦させる活動も行っている(奇しくも3カテゴリーとも、2009年までタイヤがダンロップのワンメイクであった)。2005年より、ダンロップのテレビCMにD1ドライバーの野村謙と共に出演している。ホットバージョンに出演していた際には土屋圭市からは「ハンゾー」、他のドライバーからは「はっちゃん」などと呼ばれている。愛用のヘルメットには、1990年全日本F3000のテスト中の事故によって死亡した親友の村松栄紀の名前(「EIKI LIVES」)が刻まれている。

出典:wikipedia

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