モンロビア(Monrovia , モンロヴィアとも)は、アフリカにあるリベリア共和国の首都である。人口は1,010,970人(2009年)。大西洋とメスアルド川に囲まれた場所にある港湾都市である。北緯6度19分、西経10度48分に位置する。モンロビアはリベリア最大の都市であり、同国の政治、経済、金融の中心である。リベリア内戦で攻撃を受けており、いくつかのビルが破壊された過去がある。同市の港は多数の船舶やドックを有しており、ゴム、鉄などを海外へと輸出している。空港は、市内から60キロ離れたロバーツにロバーツ国際空港がある。この空港は第二次世界大戦中にアメリカが建設した空港である。リベリアは便宜置籍国として有名だが、その場合の船籍港はほとんどの場合モンロビア港となる。1560年代にポルトガル人航海士によってこの地域がメスラド岬(Cape Mesurado)と名付けられた時、既に先住民のクルー族などの部族が居住していた。 アメリカ人解放奴隷が自給自足できる、既存のフリータウンのような植民地を設立することを目的とし、アメリカ植民地協会の支援により、1821年にアメリカ合衆国からの最初の居住者がアフリカに到着した。同協会のロバート・ストックトンがクルー族の首長ピーター王との銃などの品物交換の交渉(と言うよりもストックトンはピーター王に銃で脅して売買しようとしていた)でモンロビアとなる土地を手に入れ、アメリカの解放奴隷の黒人達が現地のプロヴィデンス島(Providence Island:現在のシエラレオネ)に初上陸した。入植事業は困難を極め、多くの居住者が亡くなった。1822年、第2陣の船が先の居住者を救出し、彼らをメスラド岬に運び、クリストポリス居住区を創設した。1824年、アメリカ大統領のジェームズ・モンローにちなみ、居住区の名前がモンロビアに変更される。アフリカ系アメリカ人解放奴隷をリベリアに搬送したこの植民の有力な支援者達は、アメリカ大陸で奴隷を解放するよりも、アフリカ大陸へ入植させる方が好ましいと感じた。なお、アメリカ合衆国以外の国の首都名が、アメリカ大統領の名前にちなんでいるのはモンロビアだけである。1845年、モンロビアは、2年後に独立国リベリア共和国の憲法とる草案を作成したアメリカ植民地協会が主催した憲法制定会議の場所となった。観光地としては、1958年に建てられたリベリア国立博物館()がある。アメリカ植民地協会の支援の元、アメリコ・ライベリアンにより1867年に建てられたマゾニック寺院()は、リベリアのフリーメイソン支部であり、アフリカ唯一のフリーメイソンの建物である。1980年の軍事クーデターが起こるまで、リベリアの政治において数々のアメリコ・ライベリアン出身の大統領や政治家や著名人を生み出し、サミュエル・ドウ政権時は弾圧され、活動縮小に追い込まれて来た。1989年以降の内戦の影響でほぼ廃墟と化したが、内戦終結後の2005年から一部修復され活動再開しており、建物全体の修復計画がある。また、2014年以降に同国で起きたエボラ出血熱流行では医療室のベットの数が足りないため、建物が病室代わりに使われた。なお、モンロビアにある医療施設はやなどがある。1965年に建てられたテンプル会堂()はリベリアの国会議事堂で、当時の最新スタイルの大きな建物であり、内戦の被害は多少受けたが比較的少なかった。インターコンチネンタルホテルズグループが運営し、1964年から建設が始まり1967年に完成したデュコール・パレス・ホテル()は、プールも完備したリベリア最大を誇る高級ビジネスホテルであった。しかし、1989年以降の内戦により破壊され、現在は完全に廃墟となっている。内戦終了後の2006年頃から、リベリア政府が廃墟となったホテルを新しく修復しようと計画しているが、コストなどの問題で何度も延期され、いまだに修復するか決断出来ないでいる。2010年にリビア政府がホテルの修復計画の支援に乗り出していたが、リビア内戦の影響で、カダフィー大佐の死後、リビアからの支援は凍結されている。他のホテル施設は1979年のアフリカ統一機構の会議が主催されたホテル・アフリカ()がある。1990年に内戦でホテル内で戦闘があり、破壊された。廃墟となったが、2009年に南アフリカのコンソーシアムによる1億ドルを投資する修復計画があった。ウォーターサイド市場(Waterside Market)など、教育施設に1862年設立の国立リベリア大学、米国聖公会の機関であるカッティントン大学などがある。
出典:wikipedia
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