


アンダースローとは、野球の投手の投法のひとつ。下手投げと呼ばれる。投手がボールをリリースする際に身体が沈むこと、またはボールが下から上に上がってくることから、サブマリン投法とも呼ばれる。「アンダースロー」という呼称は和製英語であり、英語ではsubmarineと呼ぶのが一般的である。アンダースローとは、投手の手からボールがリリースされるときに、ボールを持っている腕が水平を下回る角度にある投法のことである。ワインドアップまたはセットポジションから急激に重心を下降させ、投球腕を水平を下回る角度にまで下げた後、腕をしならせて投げる。オーバースローとは違う投球リズム、投球動作であるため、アンダースローを長く続けている投手はオーバースローで投げることが難しくなる場合がある。一方で、肩や肘を痛めた投手がアンダースローに転向する例も多い。なお、杉浦忠や永射保など、サイドスローに近い腕の角度で投球する投手もいる。スピードのある速球を投げることは難しいが、低いリリースポイントから浮き上がるような軌道でボールが投球されるため、打者を幻惑することが出来る。例えば、内角高めに速球を投げると、打者はボールの下を叩いてしまいやすく、凡フライを打ってしまいやすい。アンダースローでも球威がある投手の場合、これを利用して、打者の胸元への速球を武器とすることが多い。2008年にマサチューセッツ工科大学のサル・バクサムサ教授がオーバーハンド投手のジョー・ブラントンと、アンダースロー投手のブラッド・ジーグラーの速球の投球軌道(球筋)を比較したところ、ブラントンの投球はリリースポイントからキャッチャーミットに到達するまで約1.3メートル落下したのに対し、ジーグラーの投球はリリースポイントから約30センチメートルしか落下しなかった。バクサムサはこの投球軌道の違いが打者を幻惑する要因となっていると指摘している。また、右打者に対する右投げ、左打者に対する左投げではより角度のある投球となるため、これを苦手とする打者もいる。また、シンカーやスクリューボール、カーブなどの球種は一旦浮き上がってから曲がり落ちる特有の軌道を描く。さらに、アンダースロー投手は絶対数が少なく、アンダースローの軌道を再現できるピッチングマシンも少ないため、打者はこれを打ち返す練習をすることが難しい。欠点のひとつは、走者を背負った際のクイックモーションが難しく、盗塁を企図されやすいことである。しかし渡辺俊介は、フォームの無駄を減らすことと捕手との協力で対応可能としている。また、この投法をする投手は与死球が多いことがある。これはアンダースローによる投球の軌道は独特であるため、打者側が反応できず回避動作が遅れることも一因である。1920年8月16日にニューヨークのポロ・グラウンズで行われた試合において、クリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマンがニューヨーク・ヤンキースのアンダースロー投手カール・メイズから頭部に受けた死球のために、翌日未明に死亡するという事故が発生している。また、この投法でフォークボールを投げることは難しい。ただし、落ちる球としてはシンカーなどで代用が可能である。さらに、アンダースローを指導できる指導者は少なく、指導法も未確立である。左打者に対する右アンダースロー投手は球筋が見易く球速もさほど速くない為、慣れてしまえばくみし易い。ただし、アンダースロー投手の絶対数が少なく対戦も多くないので打者が圧倒的有利とはなっていない。アンダースローは全身を使わないと投げられないため、肩や肘に疲労が集中しない。そのため山田久志や渡辺、スティーブ・リード () はアンダースローは故障が少ない投法であると証言している。また、日本ではアンダースロー投手には「先発完投型」が多い。しかし、股関節や膝関節をうまく使うことが出来ず、体幹のみを極端に屈曲させるフォームになってしまうと、前鋸筋筋膜炎を起こしたり、ひどい場合には肋骨にひびが入ったり疲労骨折することもある。1845年にアレクサンダー・カートライトがルールを整備した初期の野球では、投手の投球は全てアンダーハンドで行われていた。当時のルールでは「ピッチ(pitch=放ること)」だけが許され、「スロー(throw=投じること)」が禁止されていたため、その投法は今で言うスローピッチ・ソフトボール投手の投法に近いものであった。しかし、1860年以降ジム・クレイトンなどの投手がフォームに改良を加え、速球派の投手が増加したことからそのルールは徐々に死文化して行き、1872年にはルールが改正され、アンダーハンドでも手首のスナップを使って投げることが正式に認められた。その後、アンダースローは1882年にサイドハンドピッチが、1884年にオーバーハンドピッチがそれぞれ更なる投球ルール改正によって解禁されるまでは主流の投法であった。また、野球の球種の内、カーブ、チェンジアップを初めて投げたのはアンダースロー投手(カーブはキャンディ・カミングス、チェンジアップはハリー・ライト)である。日本に野球が伝来したのは投球ルール改正前の1871年、お雇い外国人のホーレス・ウィルソンによってである。さらに1908年11月22日に行われたメジャーリーグベースボール選抜チーム対早稲田大学野球部の試合で始球式を行った大隈重信の投球はアンダースローであった。NPBにおいて最初に活躍したアンダースロー投手は1936年に阪急軍に入団した重松通雄である。重松と1949年に南海ホークスに入団した武末悉昌には共に「アンダースローの元祖」という渾名が付いている。その後1960年代には南海の杉浦忠、大洋ホエールズの秋山登といった名手が登場するが、この時代までのアンダースローの投手は概ね上体を立てた姿勢から肩より下の角度でサイドスロー気味に投球する者が多かった。前述の通り1920年にカール・メイズが死球による死亡事故を起こすと、アメリカ合衆国ではアンダースローは危険な投法であるという認識が広がり、アンダースロー投手は減少していった。1972年(日本では1976年)に、スピードガンが野球界に導入され始めると、投手の投球術よりも球速が注目されるようになり、球速の出にくいアンダースロー投法を採用する投手の減少傾向がより進んだ。1970年代のNPBには阪急の足立光宏と山田久志という時代を代表する名手が登場するが、この時代のアンダースローの投手はリリースポイントを下げる為に上体を倒した姿勢で振りかぶり、サイドスロー気味に投球する者が多く、アンダースローであっても剛球派で鳴らす投手も数多く存在した。武末や杉浦と類似した上体を立てたフォームの投手では永射保が活躍したが、山田らのフォームと比較した場合、純然たるサイドスローとして分類されるケースも多かった。山田ら70年代の名手が引退した1980年代後半以降は、NPBでは先発をこなせる目立ったアンダースローの名手が不在となり、アンダースロー自体が一時衰退する。リリースポイント自体は山田らのフォームよりも更に低くなっていったが、軟投の技巧派として分類される投手が多くなり、活動の場も専らワンポイントリリーフなどの中継ぎや抑えなどに移り変わっていった。1990年代には福岡ダイエーホークスに、上体を極端に倒して地面スレスレの位置からリリースするフォームの足利豊が在籍。同年代後半にはアンダースローの中継ぎ陣を数多く擁した阪神タイガースのような事例もあったが、いずれもそれほど活躍することなく終わっている。しかし、2000年代にはMLBに足利と同じく極端に低いリリースポイントから投球するチャド・ブラッドフォードが登場、日本でも千葉ロッテマリーンズに「世界一低いリリースポイント」とも謳われる渡辺俊介が入団、後者は主力の先発投手としてワールドベースボールクラシックでも活躍し、NPBにおいてアンダースローが復権する端緒ともなった。渡辺がMLBに移籍した2010年代現在は、埼玉西武ライオンズの牧田和久が渡辺に匹敵する低いリリースポイントから投げるフォームで、NPBでは著名なアンダーの投手となっている。
出典:wikipedia
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