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松殿基房

松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。正式には藤原 基房(ふじわら の もとふさ)。藤原忠通の五男。松殿家の祖。松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。保元元年(1156年)8月、元服すると同時に正五位下に叙任され、翌月に左近衛少将に任ぜられる。翌年8月には従三位、権中納言となる。その後も内大臣、右大臣、左大臣などの高官を歴任し、兄の近衛基実が早世すると、その息子である近衛基通が幼少のため、六条天皇の摂政に就任した。仁安3年(1168年)2月、六条天皇が高倉天皇に譲位すると、引き続いて摂政を務め、嘉応2年(1170年)12月には太政大臣、承安2年 (1172年)12月には関白となった。しかし、兄・近衛基実の死後、その遺領の大半は基実の妻であった平盛子のものになっていた。『玉葉』によれば、承安3年(1173年)6月頃に後白河法皇が基房と盛子の再婚話を進めたとされている。だが、基房はその2年前に既に平清盛と親しかった三条公教の娘と婚姻していたにも関わらず、太政大臣・花山院忠雅の娘・忠子を北政所にするという事件(『玉葉』承安元年8月10日条)があり、更に盛子を迎えることに清盛が反発したため、この話は中止となった。清盛は基実の子である近衛基通を正統な後継者とみなして、基房をその中継ぎと考えていたとみられており、その権力の強化に警戒を抱いてようである。また、他の公卿にも似た動きがあり、仁安3年(1168年)の大嘗祭に付随して行われる五節舞の帳台試(天皇御前での予行演習)における摂政参入への随行を左近衛大将・藤原師長と右近衛大将・久我雅通が揃って拒否して解任される事件が発生している。治承3年(1179年)2月に北政所である忠雅女が皇太子・言仁親王の養母となった。これは基実正室の盛子も高倉天皇の養母となっており、その先例に倣ったことと、基房と平家の連携を図った後白河法皇の意図であったとされるが、清盛からは基房が基通から摂関家当主の地位を奪おうとしていると反発を受けた。続いて盛子と平重盛が死去すると、基房はその遺領を清盛に何の相談も無く、後白河法皇と謀って没収するという反平氏的政策を打ち出した。これに清盛は激怒して同年11月、軍を率いて上洛し、クーデターを起こす。清盛の軍事力の前に基房が抗せるはずもなく、直ちに反平氏的公卿と見なされて解官されたうえ、大宰権帥に左遷される。途中備前国で出家する事でようやく同地滞在を許された。その後の治承4年(1180年)12月になって、ようやく罪を許されている。清盛の死後、平氏が急速に衰退して寿永2年(1183年)に源義仲の攻勢の前に都落ちすると、基房は娘(伊子とされる)を義仲の正室として差し出して連携を結んで清盛時代に失った権勢を取り戻そうと画策する。そして同年11月、義仲の勢力を背景にして息子の師家を後鳥羽天皇の摂政・内大臣にまで昇進させた。だが、寿永3年(1184年)1月に義仲が源義経らによって討たれると、基房は政界から引退することを余儀なくされ、師家も罷免されてしまった(ただし長男の隆忠は建暦元年(1211年)まで左大臣)。その後は朝廷における行事など、形式的な儀礼などに関わるだけの長老として顔を出すだけだったが、公事・故実に通じた博識として後世まで重んじられた。寛喜2年(1230年)12月28日、87歳の長寿をもって薨去。法号は中山院、または菩提院。基房に関する逸話として有名な『平家物語』「殿下乗合事件」については、基房自身は摂政・関白を務めたものの、権力者の動向に翻弄される生涯を送った。だが、一方で『今鏡』(巻5)にてその才能は高く評価され、政治的失脚後も公事や有職故実に通じた大家として宮廷内では重んじられた。また、現在ではほとんど逸散してしまったものの、日記や有職故実書を著してその説が摂関家においては重んじられていた。これは、基房が幼少時に実父・忠通の元で育てられて、忠通から九条流・御堂流の有職故実を直接伝授されたこと、ともに伝授を受けた異母兄の近衛基実の早世によって九条流・御堂流の口伝を知る者が基房のみになったこと、加えて妻の実家である三条家や花山院家(及び分家の中山家)も有職故実に通じた家として知られており、基房は九条流や御堂流のみならず、両家を通じて彼らが奉じていた土御門流や花園流の故実に関しても知識を学び、九条流-御堂流の有職故実の価値を高める努力を欠かさなかったことによる。これに対して忠通の子である九条兼実や基実の子である近衛基通はともに早くに父を失ったためにこうした公事や有職故実の知識を得る機会には恵まれておらず、彼らは政治的な局面では基房と対立する場面があっても、摂関家の故実の唯一の担い手であった基房の知識や学説に対しては常に敬意を払っていた。これは基実の孫・近衛家実や兼実の孫・九条道家が嵯峨に隠棲していた基房を訪ねて教えを受けていることからでも知ることが出来る。更に後鳥羽上皇も内弁の作法の伝授を受けるために秘かに基房を訪ねたことが知られている(『古今著聞集』巻3)。基房の没後、松殿家自体は衰退するものの、その有職故実の学説は「松殿関白説」などと呼ばれて、近衛家・九条家をはじめとする摂関家において重要視され、村上源氏や閑院流が奉じてきた土御門流や花園流の作法を批判して、「正説」(九条良経『春除目抄』巻2など)である松殿関白説を擁する摂家こそが公家社会を主導すべきとする家意識を形成することになる。※日付=旧暦

出典:wikipedia

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