上原 善広(うえはら よしひろ、1973年7月6日 - )は、大阪府出身のノンフィクション作家。被差別部落出身である事をカミングアウトし、部落問題を中心に文筆活動を行っている。1973年、松原市南新町(更池)で、4人兄弟の末っ子として生まれた。父が24歳のときの第4子である。父は食肉店を経営し、自民党系の同和会南大阪支部長を務めた。また、部落解放同盟員でもある。父の店は後に堺に移転した。母は堺の地主の末娘だった。被差別部落の出身ではない。少年時代に両親が離婚し、家庭の事情により羽曳野市や藤井寺市などを転々として育つ。羽曳野市立河原城中学校在学中はシンナーを吸っていたが担任教師に救われて立ち直った。このころ、部落解放研究部に所属。大阪府立美原高等学校在学中に始めた円盤投で頭角を現し府大会で優勝。スポーツ推薦で大阪体育大学に入学。1996年に同大を卒業、中学校の体育非常勤教師となる。米国で1年間ほどを過ごし、23歳の時にロサンゼルスの日系新聞『羅府新報』でフリーライターとしてデビュー。長く雑誌を活動の場としてきたが、2005年に著作『被差別の食卓』を新潮社から刊行。2010年4月、『日本の路地を旅する』で第41回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2010年12月、咲くやこの花賞 文芸その他部門受賞。2012年3月、『新潮45』2011年11月号の「孤独なポピュリストの原点」により編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞大賞受賞。上原家がいつ頃から更池に住みついたのか、よく分かっていない。古い記録によれば、和泉の南王子村に住む木下重三郎の息子竹蔵が23歳のときの1869年(明治2年)、更池の上原安二郎宅へと養子にもらわれてきたことからはじまっている。上原安二郎には、生涯、子がなかった。竹蔵は上原家を継ぎ、地元の娘リウを娶り、9人の子をもうけた。リウは平民であり、更池の者でもなければ、部落の者でもない。竹蔵、リウ夫妻の五男豊松は更池の娘タマノと一緒になり、8人の子をもうけた。長男(上原善広の祖父)から下の7人はすべて女だったが、無事に成人し、それぞれ浪速区、西成区、兵庫長田、京都下京区、奈良北葛城郡の部落へと嫁いだ。長男(上原善広の祖父)は京都宮津の部落生まれの娘(上原善広の祖母)を娶った。祖父母の間には、二人の子が生まれた。それが上原善広の父とその妹である。父は若くして所帯をもち、農業をしていた実家の屋敷の半分を改築し、食肉卸の小さな店を開いた。母は堺の地主の末娘で、カフェでウェイトレスをしていた頃、父は母を見初めた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。