磨墨塚(するすみづか)とは、梶原景季の愛馬の墓とされている塚である。日本各地に存在するものの、本項では東京都大田区南馬込のものを中心に解説する。磨墨は梶原景季の愛馬であり名馬として知られた。磨墨に乗った景季は、1184年(寿永3)の宇治川の戦いで、やはり名馬の誉れ高い池月(いけづき)に乗る佐々木高綱と先陣を争った(宇治川の先陣争い)。磨墨を葬った場所と称する所は日本各地にあり、東京都大田区南馬込3-18-21 にも磨墨塚と称す塚がある。現在塚上には、地元篤志家が建立した顕彰碑があり、塚の周囲には江戸時代の馬頭観音の石碑なども残り、馬に関わる場所として古くから知られていた事は確かなようだ。塚の付近には磨墨が落命したという「駒落ノ谷」や、死期の迫った磨墨が鐙を落とした「鐙谷」に由来する「鐙坂」(坂自体は大正頃の区画整理による)がある。また、磨墨塚近くの古刹万福寺には、梶原景時の墓とされる墓石が残っている。さらに、万福寺に近い、現在大田区立郷土博物館(大田区南馬込5-11-13)がある谷の旧家の敷地は、地元では古くから梶原屋敷と呼ばれ、梶原景時の屋敷があったとの伝承がある。ただし、これらの遺構や伝承と、実際の磨墨や梶原景時との関わりを示す具体的な証拠は無く、あくまで俗説に過ぎない。実は、戦国時代の1559年(永禄2)、後北条氏により編纂された『小田原衆所領役帳』には、太田康資を筆頭とする江戸衆の中に、武蔵国馬込に梶原助五郎、同新井宿に梶原日向守の名が見える。おそらく、戦国期の土豪梶原氏の事跡が、後世梶原景時と混同されたというのが真相のようである。万福寺境内の伝梶原景時墓も、景時本人の物ではなく、戦国期の馬込梶原氏関連の人物の墓と考えられている。墓石側面の銘文には「景末」の名が読み取れる。同墓に関しては、江戸時代に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』にも詳細に記述され、景時の墓とする俗説を否定している。同書には墓石側面の銘文の全文が記録されている。現在では墓石の風化著しく、銘文の判読が困難な事もあり、貴重な記録となっている。一方、馬込の伝梶原屋敷跡の地に、少なくとも戦国期の馬込梶原氏の居館として、小規模な中世城郭「馬込城」が築かれていた事は事実のようで、谷を下りる道を挟んで博物館の向かい側の谷北側斜面には、僅かに段状の削平地が、谷頭から谷の下方の神社付近にまで確認され、馬込城の遺構の可能性が指摘されている。また中世城郭の居館部分の名称であり、城郭地名としても知られる「根古屋」(ねごや)が、この谷の字名として残されていた点も、馬込城の存在を示す有力な傍証である(地元の表記では根古谷)。東京23区内で根古屋地名が確認されるのは、今のところ大田区の馬込だけである。この馬込城及び城主梶原氏については、城郭研究家の伊禮正雄が詳細に検討を加えている。万福寺では、ごく最近磨墨像の建立や伝梶原景時墓の整備が相次いで行なわれた。伝景時墓の墓石も整備の度毎に若干場所が移動されている。また、馬込には梶原屋敷伝承の他に、「梶原ヶ原」や「梶原塚」など、梶原氏に因む地名や遺構がいくつか残っていた。梶原塚付近にあったという宝篋印塔が、昭和30年頃に万福寺境内に移設、保存されている。なお、東京都大田区の洗足池周辺(洗足池公園大田区南千束2-14-5)には、名馬池月の伝説も伝えられている。石橋山の合戦敗北後の源頼朝が、池の付近に投宿した際、池の水面に映える美しい駿馬が現れたので捕らえ、池月と命名したという。池月伝説は関東各地に存し、洗足池の伝承も俗説の1つに過ぎないが、大田区から品川区の一帯はとかく源氏にまつわる地名や伝承が多く残る地域である点は興味深い。すなわち源氏ゆかりの馬込八幡神社や源氏の白旗に由来した社号を有す旗ヶ岡八幡神社、伝梶原景時寄進の神橋や伝源頼朝寄進の手水石を伝える武蔵國八幡總社の磐井神社などがあり(大田区大森北)、品川区中延には、かつての字名として「源氏前」の地名が伝わる。これらの伝承を踏まえ、大田区と隣接する品川区にある大井競馬場では毎年秋に「池月・磨墨賞」という名前のレースが行われている。
出典:wikipedia
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