米野 智人(よねの ともひと、1982年1月21日 - )は、北海道札幌市出身の北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(捕手、外野手) ・プロ野球コーチ。札幌新琴似シニアリーグ、小樽市の北照高等学校を経て、のドラフト会議でヤクルトスワローズから3位指名を受けて入団した。ルーキーイヤーのは一軍出場なしに終わり、翌に一軍に初昇格する。9月7日の対巨人戦で途中起用され、プロ入り初出場を記録した。は初安打を放ち、8月11日の対横浜ベイスターズ戦で初の先発出場。その試合で吉見祐治からプロ初本塁打を放ち、初打点を記録する。8月19日の阪神戦では11回裏2死満塁からプロ初サヨナラ打を放った。翌は一軍出場なしに終わった。翌は15試合に出場。は34試合出場と出場機会を増やした。シーズン末に、退任する若松勉監督から指導を受け、それまで打率0 - 1割台後半と低迷した打撃面での成長を評価された。それまで正捕手であった古田敦也が選手兼任監督に就任したは自己最多の116試合に出場した。打撃面においては前述の指導もあり、自身初の打率2割台に到達、7本塁打を記録している。は前年度の実績から正捕手候補の筆頭とされたものの、オープン戦で16打数1安打と打撃面で結果を残せず、開幕後はスタメンマスクを打撃面で勝る福川将和に譲る機会が増え、米野は2番手捕手に甘んじた。その後福川の打撃が低迷したことから、4月末から5月一杯にかけて再びスタメン起用が続いた。もっとも米野も1割台の打率に終始し、正捕手への定着は果たせなかった。守備面では前年までのような送球の失策などは減少したが、古田よりリード面に対して苦言を呈されることもあった。7月中旬には実戦で経験を積む目的から約2年半ぶりに二軍へ降格すると、川本良平の台頭もあってそのままシーズンを終えた。は前半戦までは控え捕手として一軍登録されていたが、衣川篤史の台頭や川本が怪我から復帰したことによって6月24日に一軍登録を抹消された。同年7月12日、二軍の試合においてファウルチップを右手親指に当てて脱臼骨折し戦線離脱となった。同年中の復帰は絶望視されたものの驚異的な回復を見せ、9月13日に二軍戦で実戦復帰した。その1週間後、福川の怪我により約3ヶ月ぶりに一軍へ復帰した。6月18日、山岸穣との交換トレードによって埼玉西武ライオンズへ移籍した。米野は移籍を機に、山岸が着けていた背番号36を着用する。しかし、この年にはヤクルトへの在籍中から一軍公式戦への出場機会がなかった。には、前年までの正捕手・細川亨が国内FA権の行使で福岡ソフトバンクホークスへ移籍した。米野に正捕手争いの機会が訪れたが、怪我でシーズンに出遅れたことから一軍公式戦への出場は3試合にとどまった。なお、外野を守れる右打者がチームに不足していたことから、シーズン終了後の秋季キャンプでは外野の守備練習を開始した。にはポジション登録を捕手から外野手へ変更し、4月26日のソフトバンク戦(福岡ドーム)では、9回表2死満塁で迎えた打席でブライアン・ファルケンボーグから左翼スタンドに逆転本塁打を放ってチームの勝利に貢献した(詳細後述)。米野にとってこの一打は、一軍5年振りの本塁打であった。その一方で、イースタン・リーグの公式戦では6試合で一塁、1試合で捕手の守備に就いている。には一軍公式戦3試合の出場で4打席無安打3三振という結果に終わった。イースタン・リーグの公式戦では29試合で一塁、27試合で三塁、10試合で外野を守っている。には主に代打で一軍公式戦12試合に出場した。2本の犠飛を放ったほか、2年振りに安打・打点・得点を記録した。イースタン・リーグの公式戦では、35試合で一塁、11試合で外野の守備に就いている。には一軍公式戦2試合に出場しただけで、4打数無安打に終わった。一軍が捕手3人制を採用する一方で、二軍の捕手に故障者が続出したチーム事情から、イースタン・リーグ公式戦では捕手として10試合に出場。しかし、一軍でマスクを被る機会がないまま、10月2日に球団から戦力外通告を受けた。2015年11月12日に、地元球団の日本ハムが選手兼バッテリーコーチ補佐(二軍コーチ)として米野と契約したことを発表した。米野はこの契約を機に、「捕手ができれば外野はいつでもできる」という栗山英樹監督の発案で、ポジション登録を4年振りに外野手から捕手へ戻した。背番号は70。には、二軍のバッテリーコーチ補佐として、二軍の遠征に参加しない選手(残留組)の指導などを担当。その一方で、ユーティリティプレイヤー(捕手・一塁手・三塁手・外野手)として、イースタン・リーグの公式戦に随時出場している。4月20日の対西武戦(札幌ドーム)では、捕手として8回表から試合終了まで守備に就いたことによって、自身2年振り・移籍後初の一軍公式戦出場を果たした。札幌にある米野の実家では喫茶店を経営しており、道内での試合の際に訪れるファンも多いという。東京ヤクルト時代には、入団直後から古田の後継捕手として注目された。肩の強さと長打力が注目されていたが、キャッチングやリード面で課題を抱えていた。打撃面では、東京ヤクルト時代から確実性の低さを指摘されている。同球団への在籍中には、一軍公式戦へ出場した8年間のうち、打率2割以上を記録したのは2006年(340打数80安打、打率.235)と2009年(18打数5安打、打率.278)の2シーズンのみにとどまった。埼玉西武へ在籍した5年間でも、2012年(58打数12安打 打率.207)と2014年(19打数4安打 打率.211)しか達成していない。埼玉西武時代の2012年にソフトバンク戦で逆転満塁本塁打を放った際には、この試合を中継していた『ライオンズナイター』で斉藤一美(文化放送アナウンサー)が、感動のあまり途中から泣いていると思われるような声で実況していたとされる。ちなみに、この本塁打の後に作られた米野の応援歌には「レフトスタンド狙え 奇跡を起こせ」というフレーズが使われていた。
出典:wikipedia
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