酒匂(さかは/さかわ)は、太平洋戦争中に建造された大日本帝国海軍の軽巡洋艦。阿賀野型の4番艦。名前は静岡県および神奈川県を流れる酒匂川からとられている。戦争末期に竣工したため、作戦参加の機会もなく太平洋戦争終戦時、七尾湾にて無傷で残存していた。終戦後は復員船として活動した。最終的にアメリカ軍の原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦となり沈没した。仮称艦名「第135号艦」。1942年(昭和17年)9月25日、第134号艦(阿賀野型軽巡3番艦矢矧)が佐世保海軍工廠で進水。10月31日、阿賀野型軽巡1番艦「阿賀野」が竣工、佐世保を離れた。11月21日、潜水艦2隻(第376号艦《伊46潜水艦》、第377号艦《伊47潜水艦》)と軽巡1隻(第135号艦《酒匂》)は佐世保工廠において起工した。1943年(昭和18年)12月29日、佐世保で建造中の姉妹艦矢矧が竣工、第十戦隊に編入された。1944年(昭和19年)4月1日、第135号艦を酒匂と命名、同日附で軍艦籍に加入された。4月9日進水。同日附で横須賀鎮守府在籍。8月28日、佐世保工廠に酒匂艤装員事務所を設置。9月25日、日本海軍は大原利道大佐を酒匂艤装員長に任命する。大原は、吹雪型駆逐艦磯波駆逐艦長、朝潮型駆逐艦霰初代駆逐艦長、第19駆逐隊(浦波、敷波、天霧)司令等を歴任していた。11月10日、酒匂艤装員事務所は閉鎖され、大原(酒匂艤装員長)は制式に酒匂艦長となる。同年11月30日、「酒匂」は竣工し、連合艦隊附属となる。その後、佐世保から呉に回航される。12月11日より第十一水雷戦隊(司令官高間完少将)旗艦となる。第十一水雷戦隊は新造艦艇の訓練を目的に編制された部隊で、酒匂の編入当時は松型駆逐艦や秋月型駆逐艦を主力としていた。1945年(昭和20年)1月8日には、人間魚雷「回天」母艦に改造された軽巡洋艦北上も第一訓練部隊(第十一水雷戦隊麾下)に編入されている。第7駆逐隊に編入される前の吹雪型駆逐艦響も短期間所属した。上記にあるように、酒匂は作戦参加の機会もなく専ら内地で訓練に従事していた。1945年(昭和20年)3月には姉妹艦にして第二水雷戦隊旗艦矢矧とともに天一号作戦(戦艦大和の沖縄水上特攻作戦)に参加する予定となり呉に移動したが、直前になって酒匂の出撃は中止された。瀬戸内海の八島へ移動。5月5日、第7駆逐隊の解隊にともなって響は第105戦隊に編入され、第十一水雷戦隊の指揮下を離れた。5月10日、酒匂は駆逐艦部隊(秋月型駆逐艦《夏月、宵月》、松型駆逐艦《梨、椎、萩、榎、菫》)を率いて八島を出発し、訓練地へ向かった3隻(梨、椎、榎)をのぞいて呉に到着。5月20日まで酒匂は呉で待機する。同時期、北上および駆逐艦波風(回天母艦)は海上挺進部隊として鹿児島湾での訓練を命じられ、同地へ移動した。5月27日、酒匂は松型駆逐艦を率いて呉を出発、舞鶴へ向かった。航海中、触底してスクリューに軽微な損傷を受ける。27日、4隻(酒匂、菫、柿、楠)は舞鶴に到着。同地には、すでに第17駆逐隊(雪風、初霜)も到着していた。6月1日、酒匂は小浜湾へ移動し、待機を続けた。燃料不足のため、陸上から電気を引き、ボイラーの火は消された状態となった。7月1日、第十一水雷戦隊司令官は高間完少将から松本毅少将へ交代。7月10日に着任した松本少将は「酒匂」の視察をおこなう。7月15日、第十一水雷戦隊は解隊された。先任参謀松原瀧三郎大佐は第17駆逐隊司令へ転任。本艦は特殊警備艦に指定される。7月19日、舞鶴市に回航され、若狭湾の一角に停泊する。B-29が投下した機雷によって艦尾附近に若干の損傷を受けたこともあったという。訓練すら出来なくなった後は、埠頭に横付けして藁の縄と植物で艤装を行った。藁に引火する恐れがあるため、対空射撃も禁止された。終戦時は七尾湾にて無傷で残存され、1945年10月5日に除籍された。1945年(昭和20年)12月1日、酒匂は特別輸送艦に指定された。釜山、南洋諸島、ニューギニア、台湾などを航海し、復員輸送に従事した。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員約900名に対しこの時点の酒匂には約300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し甲板に居住区やトイレが設置された。武装については、主砲は砲塔を残し砲身のみ撤去、その他に高角砲、魚雷発射管、機銃、各射撃指揮装置、探照燈、射出機、13号電探、22号電探なども撤去された。艦内秩序は維持され、同乗した豪州海軍の少尉が敬礼を求めると、大原艦長は「こっちは大佐だ」とやり返したという。また北海道の函館港から朝鮮半島・釜山港へ、朝鮮半島出身労働者(約1000名)を送り届けたこともあった。当時の乗組員の手記によれば、この時、士官居住区解放を求める朝鮮半島出身労働者と酒匂の乗組員との間に対立が起こった。だが、酒匂が沖合いに出て猛烈な時化に襲われると彼らは船酔いに悩まされ、交渉は取りやめとなった。この時、朝鮮系労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、彼らが下艦した後、その処理に酒匂の乗員は泣かされることになったという。また釜山港の埠頭には多数の民衆が集まって朝鮮人労務者を歓迎し、英雄として迎え入れた。目撃した岩松(酒匂航海士)は繰り返される万歳に複雑な想いを抱き、強い印象を受けたと回想している。1946年(昭和21年)2月11日、大原大佐(酒匂艦長/第二復員官)は雲龍型航空母艦3番艦葛城艦長へ転任された。2月25日、酒匂は特別輸送艦の指定を解除された。その後、核実験(クロスロード作戦)の標的艦として戦艦長門などとともに、横須賀でアメリカ海軍に引き渡された。帝国海軍乗員による操縦指導が東京湾で行われたが、意思疎通不足によって主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られた。無負荷となった巡航タービンは規定回転数を超えて暴走し、その轟音を聞いた日本兵とアメリカ兵はあわててタービン室から逃げだして事なきを得た。結果タービン1基が破損し3軸運転となった。操縦指導は20日間に渡って実施された。ビキニ環礁への移動に2名の日本兵の添乗が求められたが、日本兵が断ったためアメリカ海軍兵員によってのみ行われた。後にこの日本兵はビキニについていけばよかったと後悔している。1946年7月1日 ビキニ環礁で行われたクロスロード作戦にともなう核実験(A-実験 空中爆発)では、酒匂は目標艦ネバダの約500~600m地点に配置されていた。だが爆心地点がずれ、ほぼ上空で原子爆弾が爆発した。その強力な爆風により艦橋より後方の構造物は、前方へなぎ倒された。艦尾部分は24時間近く炎上し、また艦尾にも亀裂が生じて浸水がはじまった。酒匂は7月2日、浅瀬への曳航作業中に左舷へ傾斜し始め艦尾から沈没しその艦歴に幕を閉じたのであった。現在は水深60mの海底に眠っている。
出典:wikipedia
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