本文批評(ほんもんひひょう、、)とは、ある文書の現存する写本から、理論的に可能な限り、その文書の元来の形()の再構成を目指す作業のこと。その手段となるのが、書誌学や文献学である。英米には、本文批評と書誌学を一体にした「本文書誌学」(Textual Bibliography)が存在する。なお、本文批評は本文批判、正文批判(正文批評)、テキスト批判(テキスト批評)、下等批判(下等批評)とも呼ばれる。聖書研究の保守陣営からは聖書批評学と呼ばれることがある。フリデリック・ケニヨンは「キリスト教信仰の基本的教理は、一つとして議論のある聖書の読み(本文)に基づいていない」、「聖書の本文は、本質において確実であると、いくら強く主張してもしすぎることはない」と述べ、これが教理に抵触することはないため、本文批評を認めている。古い時代の文書は、多くの場合、人の手によって写される写本の形で伝わった。写本の際には、単なる誤記・脱字のミスや、誤記・脱字の範囲を超えて意図的に原本から外されたり書き換えられたりすることもあった。こうして書き写された文書は、他の写本に写される。この繰り返しの結果として、内容が異なる様々な異本(ヴァリアント)が生まれることになった。本文批評によって定められた本文(テキスト)は校訂本と呼ばれ、それが多方面で受け入れられれば、定本となる。本文批評の方法論(手段)は、大きく外的批評と内的批評とに分けられる。このうち内的批評とは、文書それ自体の考察、すなわち内的証拠、を通して分析を行う場合を言う。古典的な二つの原則がある。一つは、より難しい読みがより可能性がある (lectio "difficilior" lectio potior)、もう一つは、より短い読みがより可能性がある (lectio "brevior" lectio potior) というものであるが、実際にはどちらも当てはまらない場合が多くあり、不動の原則ではない。これに対して外的批評とは、当該文書以外に現存する外的関連資料、すなわち外的証拠、を考察することによって行う(推定する)ものである。時代が古くなればなるほど、外的資料が少なくなるのは当然で、それ故、聖書やギリシャ古典の本文批評は、基本的に内的証拠によって行われる。本文批評が「下等批評」(Lower Criticism) と称される時は、「高等批評」(Higher Criticism) に対するもので、ここに高等、下等は、位づけに関わることではなく、上のレイヤーか下のレイヤーか、との視点からの名称である。「下等批評」学においては本文をその研究対象とし、「高等批評」学では、その基礎のもとに、著者問題、執筆年代、執筆場所、執筆目的などに関する研究を扱う。聖書信仰は本文批評は認めているが、高等批評は信仰の敵であるリベラルとして退けてきた。新約聖書学者のウェストコットとホートは原典に近い本文復元版で、「どのような意味においても、本質的な読み方の相違と言われるものの大部分は・・・・本文全体の千分の一を超えない」と述べ、またウォーフィールドは、「読み方の相違の約20分の19は・・・幾種の読み方があっても、誰一人として、それを矛盾する読み方であるとは考えていない。また、残りの二十分の一も、ほとんど重要な個所ではなく、それを取り上げようと取り上げまいと、その部分の意味には別に対して重要な相違をきたさない。」と述べている。田川建三によれば、世界で最も現存する写本数の多い新約聖書の諸文書は、同一箇所について膨大な異なる読みを持つことで知られる。オリジナルのギリシア語テキストでは「ほとんど一つ一つの文(センテンス)について、必ず異なった読みが存在するくらい」である。この異なる読みの中からオリジナルのかたちを推定することが本文批評の主たる目的である。
出典:wikipedia
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