


滋賀県出身。旧制松江高校、東京帝国大学卒業後、内務省入省。埼玉県副知事を経て、1949年衆議院選挙に吉田茂率いる自由党から立候補し初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・中川俊思・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。以来、吉田側近として活躍する。1952年、一年生議員ながら幹事長に指名されるが、前年の鳩山一郎の公職追放解除を受けて反吉田に動き始めていた鳩山系議員の反対により、自由党議員総会は大混乱し流会となる。結局福永は幹事長を辞退した。自民党誕生後は吉田の流れを受け継ぐ宏池会に所属。第1次佐藤内閣・第2次佐藤内閣では内閣官房長官を務めた。自民党政権の総裁派閥以外の官房長官の例は他に、前首相の病気辞任による居抜き内閣的な場合を除けば後藤田正晴(中曽根内閣)・塩川正十郎(宇野内閣)がある。1978年3月26日の成田空港管制塔占拠事件時の運輸大臣であり、新東京国際空港の開港延期の発表を自ら行う。5月20日の新東京国際空港の開港式典時には「昔から申します。難産の子は健やかに育つ」と祝辞を述べた。1983年12月には、第63代衆議院議長(在任期間・1983年12月28日 - 1985年1月24日)に就任したが、体力の衰えが進行していた1985年1月、国会の開会式のリハーサルで、玉座から後ろ向きに階段を下りる「右進退左」の所作がうまくできない(天皇におしりを向けてしまうことになるため)という理由で、議長を辞任した。また、1983年から1988年まで日本体育協会会長も務めていた。1988年5月31日死去。享年77。
出典:wikipedia
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