LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

具臺晟

具 臺晟(ク・デソン、1969年8月2日 - )は、大韓民国の大田広域市出身のプロ野球選手(投手)。オーストラリアン・ベースボールリーグのシドニー・ブルーソックスに所属している。高校時代に韓国高校選抜として来日し、大阪府(大阪球場)や鳥取県などでプレーした経験がある。大学卒業後はピングレ・イーグルスに入団。1年目は大学時代からの肩の故障であまり活躍できず、翌年から主に抑え投手として活躍する。1996年は最多勝利と最優秀救援の両方を達成し、最優秀選手賞を受賞。2000年のシドニーオリンピックでは韓国代表として日本を二度にわたり抑え込み、銅メダル獲得に貢献する。その実績が注目され2001年にオリックス・ブルーウェーブに入団。2001年、150kmのストレートと高速スライダーを武器にシーズン序盤は抑えでの起用だったが不安定な投球が続き抑えの座をルーキーの大久保勝信に明け渡し途中から先発へ転向した。最終的に51試合の登板で7勝9敗10セーブ、防御率4.06の成績を残した。2002年、前年の力で押す投球からスローカーブ等を交えた緩急の投球にしたところ安定感が生まれ、同僚の金田政彦に迫る防御率で見事2位に輝くが、打線の援護なく5勝止まり。防御率1位だった金田も4勝止まりで、防御率1、2位の投手を擁しながら、二人合わせて9勝に終わるなど、この年のオリックス投手陣は貧打に泣かされた印象が強い。2003年は故障で満足な成績が挙げられず、金田と共に首脳陣の構想を大きく裏切るシーズンとなった。2004年は起用法を巡って伊原春樹監督やフロントと対立し、一時は移籍も囁かれた。ブルーウェーブ最終戦となった9月27日対大阪近鉄バファローズ戦(ヤフーBBスタジアム)で先発を務め、ブルーウェーブ最後の勝利投手となった。最終的に来日最多の3完投を記録するも6勝10敗で防御率4点台と安定感を欠いた。2004年シーズン終了後の近鉄との球団合併の際、合併球団側と契約すると思われたが、本人のメジャー挑戦の意志が強く退団となった。その後、ニューヨーク・メッツとスプリット契約を結んだ。メジャーへ昇格して中継ぎとして活躍したが、シーズン中盤以降はマイナーに降格。シーズン終了後解雇される。2006年3月にハンファに再入団。2006 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表に選出され、1次リーグ日本戦では2イニングを完璧に抑え、勝利投手となった。2次リーグでも日本戦の9回に登板したが、西岡剛にこの試合のチーム唯一の失点となるソロホームランを打たれた。しかし、準決勝は故障により登板を回避。2007年、韓国プロ野球史上2人目の個人通算200セーブ投手になる。例年通りの成績なら、2008年シーズン中、記録更新とともに個人通算最多セーブ投手になることもできたが、この年は負傷で開幕に間に合わず、抑えの座をブラッド・トーマスに明け渡し中継ぎに降格。1セーブも挙げられずにシーズンを終えた。2009年は40歳を迎えながら主に中継ぎとしてチーム最多、そして年間自己新記録となる71試合に登板したが、チームが最下位だったこともあり、1億ウォン減の2億ウォンで2010年シーズンの契約更改を行った。2010年8月15日、同年のシーズンをもって韓国プロ野球から引退することが、球団から発表され、8月22日に正式な記者会見が行われた。その場で、オーストラリアン・ベースボールリーグのシドニー・ブルーソックスで現役を続行する意思を表明した。同年9月3日の三星ライオンズ戦で韓国最後の登板となる引退試合を行い、先発登板し先頭打者の趙東贊をセンターフライに打ち取り降板した。シドニー・ブルーソックスでは2010-11シーズン、12セーブを記録し最多セーブのタイトルを獲得した。2011年12月、オーストラリアン・ベースボールリーグのオールスター戦に世界選抜として出場し、セーブを記録した。2011-12シーズンも8セーブで2年連続最多セーブのタイトルを獲得した。なお、2012年11月に韓国・社稷野球場で開催されたアジアシリーズ2012に、パース・ヒートの一員として出場した。2013-14シーズンは11セーブで2年ぶり3度目の最多セーブのタイトルを獲得した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。