フリオ・サリナス(Julio Salinas Fernández、1962年9月11日 - )は、スペイン・バスク州ビルバオ出身の元サッカー選手。スペイン代表であった。ポジションはFW。フリオ・サリーナスとも。弟のパチ・サリーナス()もサッカー選手であり、ディフェンダーとしてアスレティック・ビルバオやセルタ・デ・ビーゴなどでプレーした。フリオとパチはどちらも1982-83シーズンにデビューしている。ビルバオに生まれ、地元のアスレティック・ビルバオの下部組織で育った。リザーブチームであるビルバオ・アスレティックに所属していた1983-84シーズン、セグンダ・ディビシオン(2部)で得点王(ピチーチ賞)となり、カスティージャCFに次ぐ2位という好成績に貢献した。1983年3月26日のセルタ・デ・ビーゴ戦(4-0)でトップチーム初得点を記録し、リーグ戦2連覇とコパ・デル・レイ優勝に一役買った。1984-85シーズンと1985-86シーズンで合わせて12得点を挙げ、リーグ戦では2シーズン連続で3位となった。1986年夏にアトレティコ・マドリードに移籍し、エースとして2シーズンで31得点を挙げている。1988年2月7日のRCDマジョルカ戦では2得点を挙げ、7-0と相手を粉砕した。1988年夏、ラモン・アレサンコ、チキ・ベギリスタイン、ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア、ホセ・マリア・バケーロなど何人ものバスク出身選手の獲得に興味を示していたFCバルセロナに移籍した。彼らはヨハン・クライフ監督の下で偉大なエル・ドリーム・チームの背骨を形成し、サリーナスは1988-89シーズンに20得点を挙げる活躍を見せた。同シーズンのUEFAカップウィナーズカップ決勝ではUCサンプドリア相手に得点してタイトル獲得に貢献し、1989-90シーズンのコパ・デル・レイ決勝・レアル・マドリード戦でもやはり得点して優勝に貢献した。1990年夏に4歳年下のFWフリスト・ストイチコフが加入すると、三十路が近づいていたサリーナスは出場機会を減らしたが、この時期にも重要な得点をいくつも決めている。1991-92シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ初優勝を飾り、1990-91シーズンからはリーグ戦4連覇を果たした。1994年1月30日、アルバセテ・バロンピエ戦(2-1)では後半途中から出場して2得点を決めたが、1993-94シーズンの得点はこの2点だけ(7試合出場)であった。1994年夏、デポルティーボ・ラ・コルーニャに移籍し、1994-95シーズンには2位でフィニッシュした。すでに30歳を超えており、レギュラーではなかったが、ベベットに次ぐチーム2位の12得点を挙げた。1994年12月3日にカンプ・ノウで行われたFCバルセロナ戦(1-1)では古巣相手にヘディングで得点している。1995年夏にはロシア代表のドミトリー・ラドチェンコが加入したため、サリーナスは余剰戦力となった。1995年夏、スポルティング・ヒホンに移籍した。1995-96シーズンは18得点を挙げ、セグンダ・ディビシオン降格からチームを救った。スポルティング・ヒホンには1シーズン半在籍しただけであるが、今日でもヒホンの街では高い敬意を払われており、ファンはよく"Bota de oro, Salinas bota de oro!"(ゴールデンブーツ、サリーナス、ゴールデンブーツ!)というチャントを歌う。1997年のはじめ、同じバスク人のハビエル・アスカルゴルタ監督に誘われて日本・Jリーグの横浜マリノスに移籍し、FCバルセロナ時代にチームメイトだったゴイコエチェアと再び顔を合わせた。初めての海外挑戦であったが、持ち前の得点能力を見せつけ、リーグ戦47試合で34得点を挙げた。1997年の第2ステージ第11節から最終節まで7試合連続得点で1993年2ndステージ三浦知良の6試合連続得点の記録を破り更に翌1998年の第1ステージ第1節まで、未だに破られないJ1記録となる8試合連続得点を記録している(Jリーグ全体では2015年にJ3・レノファ山口の岸田和人が9試合連続得点を記録している)。1999年1月、デポルティーボ・アラベスに移籍して1シーズン半を過ごした。1999-2000シーズン開幕戦のマラガCF戦(2-1)ではチームのシーズン開幕ゴールを決め、6位でシーズンを終えてUEFAカップ出場権を獲得した。2000年5月19日、アスレティック・ビルバオ戦(1-2)が選手として最後の試合となり、地元のクラブ相手に1得点を決めている。リーガ・エスパニョーラでは通算417試合に出場して152得点を挙げた。スペイン代表としては3度のFIFAワールドカップと2度のUEFA欧州選手権に出場し、通算56試合出場23得点の成績を残した。1986年1月22日、ラス・パルマス・デ・グラン・カナリアで行われたソビエト連邦との親善試合(2-0)でスペイン代表デビューした。1986年にはメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップに出場し、5試合に出場して北アイルランド戦で得点した。1988年にはUEFA欧州選手権1988に出場した。1990年にはイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップに出場し、2次リーグのユーゴスラビア戦で得点したが、この試合には敗れている。1994年にはアメリカで開催された1994 FIFAワールドカップに出場し、韓国戦(2-2)でネットを揺らした。準々決勝のイタリア戦では1-1で迎えた終盤に決定機を逃し、その数分後にロベルト・バッジォに得点を許して1-2で敗れた。サリーナスは18年のプロ選手生活で数え切れないほどの得点を挙げてきたが、その実績よりもイタリア戦で決定機を外したことを強く記憶しているスペイン人も多い。現役引退してすぐにRTVEやLa Sextaの解説者の仕事を始め、2006 FIFAワールドカップでも解説を担当した。日本のサッカー雑誌、ワールドサッカーダイジェストではリーガ・エスパニョーラ所属選手へのインタビューを行っており、隔月で掲載されている。417||152||||||||||||47||34||8||4||2||2||57||40464||186||||||||||||!通算||56||22
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