日岡神社(ひおかじんじゃ)は、兵庫県加古川市加古川町大野にある神社。式内社で、旧社格は郷社。兵庫県南部、加古川左岸の丘陵南麓に鎮座する。この丘陵は古くから「日岡」と称され、一帯の地名「加古」の由来伝承にも関係する。「日岡の神」について古くは奈良時代の『播磨国風土記』にも記述が見え、古代から信仰された古社になる。現在では、祭神の天伊佐佐比古命が播磨稲日大郎姫命(第12代景行天皇皇后)の安産祈願をしたとする社伝に基づき、安産の神として東播磨地域で広く信仰されている。現在の祭神は次の5柱。日岡神社の祭神には歴史的に変遷が見られる。まず、古くは霊亀元年(715年)頃の成立になる『播磨国風土記』賀古郡条では、日岡に坐す神について大御津歯命(おおみつはのみこと)の子の伊波都比古命(いはつひこのみこと)と記されている。一方、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座で、同帳では「日岡坐天伊佐佐比古神社」すなわち「日岡(地名)に鎮座する天伊佐佐比古神の社」と記され、祭神は天伊佐佐比古神とされている。下って宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』では正殿に玉依姫命・左に鸕草葺不合命・右に伊佐々彦命と記される状況となっていたが(由来伝承は創建節参照)、その後は上記の『延喜式』に見える天伊佐佐比古命に復している。この「天伊佐佐比古」は古典史料に見えない神で、日岡神社の古文書も天正6年(1578年)の兵火で焼失しているため、由来は詳らかではない。一説として天伊佐佐比古を彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ:吉備津彦命の本名)に比定し、『古事記』孝霊天皇記に見える吉備津彦の派遣伝承と関連付ける説もあるが、それを疑問視する説もあって定かではない。なお近年の社伝では、播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと:第12代景行天皇皇后)による大碓命・小碓命(ヤマトタケル)ら双子出産に際し、祭神の天伊佐佐比古命はその安産祈願をしたとしており、現在では安産の神としても信仰されている。創建は不詳。社伝によれば、神武天皇東征の際に荒振神が悪行を催して悩ませたが、国津神の伊佐々辺命が謀を奏したため、荒振神を退治することができた。しかし伊佐々辺命は戦死してしまったため、天皇は戦勝を祈った玉依姫・草不合命の2柱(神武天皇の父母)に伊佐々辺命を配して、これら3柱を奉斎したとする。一方で根拠は詳らかではないが、天平2年(730年)の創建とする説もある境内は日岡山の南麓に位置するが、この日岡山には古墳時代前期から中期の古墳群(日岡古墳群/日岡山古墳群)の分布が知られる。中でも代表的な日岡陵古墳(前方後円墳、墳丘長約85.5メートル)については、『播磨国風土記』賀古郡条にみえる「褶墓(ひれはか)」と関連付ける説があり、それに基づいて現在では景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている。文献では、前述のように霊亀元年(715年)頃の成立になる『播磨国風土記』賀古郡条で、日岡に鎮座する神についての言及が見える。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では播磨国賀古郡に「日岡坐天伊佐佐比古神社」と記載され、式内社に列している。天正6年(1578年)には兵火で社殿および旧記を焼失したといい、それ以前の状況は詳らかでない。『峯相記』(鎌倉時代-南北朝時代)に「日向大明神」と記されて以後は、社名には「日向」の呼称も使用されたという。近世には、慶長6年(1601年)に池田輝政から社領5石の寄進を受けたほか、慶長7年(1602年)に日向宮山について禁制が出されている。また、明和元年(1764年)には大野村・河原村・溝口村の人により社殿が再建されたという。明治維新後、明治7年(1874年)2月に近代社格制度において郷社に列した。社殿は明治3年(1870年)に改築・再建されていたが、昭和44年(1969年)に火災で焼失し、昭和46年(1971年)に現在の社殿が再建された。社名は近世頃には「正一位日向大明神」と称され、明治以降に「日岡神社」と改称したが、現在でも地元では「日向さん」のほか「大野さん」や「日岡さん」と通称されている。社殿は昭和46年(1971年)の再建による。鉄筋コンクリート製の権現造である。日岡神社で年間に行われる祭事は次の通り。所在地交通アクセス周辺
出典:wikipedia
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