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キャンベラ (ケント級重巡洋艦)

キャンベラ(HMAS Canberra, D33)は、オーストラリア海軍が保有した重巡洋艦。艦名はオーストラリアの首都であるキャンベラに因む。第二次世界大戦前にイギリス海軍1924年度海軍整備計画の一環としてケント級のうち2隻が発注された内の1隻である。キャンベラを含むケント級は艦体戦闘よりも個艦での遺外任務を主念頭に置いて設計されたために、条約に定められた排水量内で必要最小限の武装と低い防御能力と引き換えにして高い凌波性・航続距離・居住性を実現していた。限度枠いっぱいの基準排水量9,700トン台の船体は乾舷の高い平甲板型船体とし、艦首側面形状は凌波性能を高めるために2段の強いフレア(反り返り)が付けられていた。艦首甲板上には20.3cm砲を連装砲塔に収めて背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から上部構造物は始まり、その上に箱を積み重ねたような形状の操舵艦橋の背後には後方に傾斜した単脚式の前部マストが立つ。船体中央部には等間隔に並んだ3本煙突が立つが、2番煙突のみ太かった。煙突の周囲は艦載艇置き場となっており、舷側に設けられた2本1組のボート・ダビッドが片舷に3組ずつ計6組で運用された。3番煙突の後方に露天の後部見張所と単脚式の後部マストが立ち、3番主砲塔の基部で上部構造物は終了し、甲板一段分下がって後部甲板上に4番主砲塔が配置された。船体舷側部には復元性と水雷防御として広範囲にバルジが装着されていた。キャンベラはスコットランド、クライドバンクのジョン・ブラウン社で1925年9月9日に起工、1927年5月31日に進水し、1928年7月9日に竣工した。1929年1月25日オーストラリア・西オーストラリア州のフリーマントルに到着。1931年9月、ニューカレドニア、フィジーを、1932年と1937年には中国を訪問。またニュージーランドを3回訪れた。第二次世界大戦の開戦から9ヶ月間、キャンベラはオーストラリア周辺やタスマン海で護衛任務に従事していた。1940年にはドイツの仮装巡洋艦アトランティス、ペンギンの捜索に当たった。1941年2月、US9船団をフリーマントルからコロンボまで護衛。コロンボには2月20日に到着し、護衛を軽巡洋艦リアンダーと交代してキャンベラはモルディブへ向かった。2月22日、キャンベラはインド洋で通商破壊を行っていたドイツのポケット戦艦アドミラル・シェーアの捜索を命じられた。キャンベラ他何隻かの艦艇が捜索に当たったがアドミラル・シェーアは捕捉できず、2月26日に捜索は中止された。キャンベラはセーシェルのヴィクトリアで燃料補給を行った後、3月2日にリアンダーと合流し、通商破壊艦の捜索に当たった。3月4日、キャンベラは2隻の船を発見した。それはコーブルク (Coburg) とKetty Brovigであった。コーブルクはドイツの通商破壊艦に対する補給を行う船で、Ketty Brovigはドイツの仮装巡洋艦アトランティスに捕獲されたノルウェーのタンカーであった。キャンベラはコーブルクに対して砲撃を行い、コーブルクは沈没した。また、コーブルクとは別方向に逃走したKetty Brovigはキャンベラの搭載機によって停船させられ、最後はキャンベラの砲撃で沈められた。1941年の残りの期間、キャンベラはインド洋で船団護衛を行っていた。1942年1月から3ヶ月間、キャンベラはシドニーで修理を行った。第44任務部隊に所属して6月に珊瑚海での攻勢に参加、8月のガダルカナル島、ツラギ攻略作戦に参加する。1942年8月8日、キャンベラは第一次ソロモン海戦で日本の重巡洋艦鳥海が発射した魚雷2本が命中、さらに20発以上の砲弾を受け大破炎上した。キャンベラの生存者は米駆逐艦ブルー、パターソンに救助され9日6時に米駆逐艦エレット、セルフルッジの砲雷撃により処分された。第一次ソロモン海戦でキャンベラは193名の死傷者を出した。

出典:wikipedia

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