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末川博

末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の民法学者。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭をとる傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。これには京大法学部は滝川事件により教員の2/3を失い、その再建は困難を極めていたという背景があった。当時の学部長の中島玉吉は鳩山文相を訪問し、助教授四名、講師一名、助手三名の復職についての諒解を求めた。これと同時に法学部同窓会である有信会が復帰工作を始め、特に京大出身で裁判所内の実力者であった大審院判事の細野長良は末川・恒藤恭と面会している 。末川・恒藤は細野の要請を受け、復帰の内諾を得た6人と共に立命館大学学長に就任していた佐々木惣一の元を訪ねている 。終戦後、元教授たちに対しても京大への復帰が要請され、法学部執行部部長である黒田覚は10月31日の法学部学生大会の席上で宮本・瀧川・末川・恒藤の四教授復職を確約した。しかし末川はこの時点で京大復帰を拒否しており、「復帰の正式交渉は受けていない。しかし万一そんな話を持込んできてもはっきり断るまでだ。官等や位階勲等を身につけて講壇に立っている官立大学にどうして真に民主主義的な学園が生まれよう。研究の自由大学の自治が期待出来よう。欧米の有名な大学、権威ある大学は殆んど私立である。私学においてこそ学的良心に反しない研究態度が求め得られるのだと信じている。ともかく現在のような教授の顔触れの中-私が再び仲間入するようなことがあれば、凡そ頭脳を疑われると思うがね」と新聞記者の取材に対して答えた。立命館大学法学部学舎「存心館」1階ホールには、彼の言葉が掲げられている。末川は民法学の泰斗である我妻栄に並び「東の我妻、西の末川」と称される関西の民法学の雄であった。我妻は末川を引き合いに出し「今、京都帝大では末川先生がエネルギッシュに多くの優れた論文を発表して日本の民法学をリードしておられる。末川先生の指導のもとで、優秀な若い研究者が懸命に勉強している。東大も頑張らないと京大に圧倒されてしまうかもしれない。お前もそのつもりでしっかりやれ」と教え子の川島武宜を激励していた。特に「権利侵害論」に関する功績が大きく評価されている。末川の考え方は以下のように整理される。法規には人に一定の行為を命令する命令的法規と、人の一定の態様を許容し、これに一定の権利を与える許容的法規の区別があり、近代法においては許容的法規の方が優越的地位を占めている。ところが、権利は法秩序の一部であるから、そのような権利を侵害することは法秩序を侵害することと同義であり、それは違法と評価される。そのような意味で権利というものは客観的な法秩序の一部であるから、権利侵害は当然に違法な行為であるという評価を受けることになるのであるが、法律はそういう許容的法規だけではないのであって、命令的法規もあるから、法律の命令に違反するような行為、あるいは法律の命令に反しなくても公序良俗に反するような行為は権利の侵害でなくても違法性を帯びる。このような権利侵害の考え方は我妻栄に受け継がれ相関関係説に発展し、戦後は我妻民法学を承継した加藤一郎によって受忍限度論に発展させられた。末川は物権行為の独自性を唱えていた。この説自体はドイツに存在する説であり、他の学者に唱えるものもあったが、末川の理論はそのようなドイツの学説の引き写しではなく、日本の社会的実態をも深く考察した独創的なものであった。すなわち、日本では単に契約を締結しただけで所有権が移転すると考えられているのではなく、人々は代金の支払いなどをもって初めて所有権が移転したことを認識していると指摘した。この観点からの理論構成は川島武宜に高く評価され、大村敦志も無視できない指摘と評価する。末川の極めて大きな社会的業績として現在の六法全書の形を作り上げたことが挙げられる。末川が六法全書を刊行する以前にも六法全書という名の付いた法規集が有斐閣などから刊行されていたが、それらは非常に高価で、さらに民法、商法などに分冊された形式であった。昭和2年、末川は旧来の不便な六法を改善するため、事項索引及び参照条文付きの法文集の発行を考え、岩波茂雄にその考えを打ち明けた。岩波茂雄はその六法を岩波文庫の中に収録することを考えていたが、当時岩波宅に寄宿していた東京地裁判事・安倍恕(貴族院議員、学習院長、文部大臣を務めた安倍能成の弟)の実務家としての助言を受けて、六法全書としての刊行を応諾した。現在と異なり、参考とするべき六法が無かったため、事項索引及び参照条文の作成作業には2年を費やした。この作成作業には末川本人のほか末川研究室より門下生の谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫が、実務家(いずれも裁判官)からは山口友吉、山崎一郎、大江保直、安倍恕が従事した。末川の創意工夫を凝らした六法全書は一世を風靡し、岩波茂雄がこのような六法が売れるかと不安であったにも関わらず取次店から当時としては異例の7000部の注文があり、末川と岩波は驚愕した、と言われている。岩波版六法全書の発刊により旧来の不便な六法は淘汰され、有斐閣の社長であった江草四郎は六法の発行を取りやめることを決定した。平和運動に邁進した末川だが、戦時中は著書で「事あらば命に従って急に赴くの用意と覚悟とのもとに平常時よりも一段とさかんな意気と感激をもって学問に精進することを要する。将来をになう者としての自覚と責任感、そして同年配の友の多くが銃をとりハンマーをにぎりしめている雄姿を思うての反省、それらによって学問への熱意はいよいよ高めらるべきである」(『歴史の側面から』中央公論社、1942年)という発言をしていた。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には末川について、つぎの副題が付けられている。

出典:wikipedia

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