新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家。旧姓名は星野良助。上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現した。有力絹織物業者などとの取引を通して生糸輸出量の飛躍的拡大を図った。絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。『ニューヨーク・タイムズ』紙は「日米生糸貿易の創始者」"A Founder of Silk Trade With Japan"と評した。生前は「生きたる生糸貿易の歴史」とも称された。佐藤百太郎、森村豊と共に日米貿易の先駆者といわれている。在米日本人とアメリカ人との社会交流を図った日本クラブ(The Nippon Club)と日本文化の発信拠点となった ジャパン・ソサエティ(Japan Society)の創設者の一人。日本ゴルフ協会の年鑑によると、日本にゴルフを広めた日本人初のゴルフ・プレーヤーの一人。名前の英文表記はRyoichiro Arai、Ryosuke Arai、もしくは本人が日頃使用したRioichiro Arai、他人からの呼び名はRyichir Arai。実兄星野長太郎は、群馬県初の民間洋式器械製糸所である水沼製糸所の創業者で、帝国議会衆議院議員を務めた。妻田鶴(たず)は、山陽鉄道社長・会長を務めた牛場卓蔵の娘。息子の新井米男はハーバード大学を卒業し、東京海上火災保険会社(現東京海上日動火災保険)アメリカ支社総支配人、ジャパン・ソサエティ副会長を歴任し、第二次世界大戦後はニューヨーク山一證券会社取締役会長を務めた。米男は、アメリカ東海岸で生まれた最初の日本人といわれている。娘の美代は松方正義の息子の松方正熊に嫁いだ。美代はアメリカ東海岸で生まれた帰国子女第1号といわれている。孫の松方春子は、駐日本アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーの妻ハル・松方・ライシャワーとなった。同じく孫の松方種子は、西町インターナショナルスクールの創設者である。息子新井米男の妻盈(みつ)の父は岡部長職。岸和田藩の旧藩主で子爵、東京市長などを歴任し、司法大臣を務めた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。