青木 均一(あおき きんいち、1898年(明治31年)2月14日 - 1976年(昭和51年)8月27日)は日本の実業家。東京電力社長・会長。父母は東京で世帯をもっていたが、母だけが父の実家に帰ってお産したため静岡県静岡市で生まれた。青木儀助の長男。仔細あって母は父と別れた。父は朝鮮にいってしまい、祖母と一番末の叔母との三人暮らしだった。小石川の富坂の近くで育つ。父と別れたのは四ツのときで、おぼろげに印象が残っているだけである。小学校にはいる直前、くわしい事情はわからないが、祖母は急に東京を引きあげて静岡に帰った。そこで静岡の小学校にはいり、三年を終えた。本家の伯父一家が東京に移転したので、また東京に戻ってきて下谷の小学校を終えた。1911年小学校を卒業した。朝鮮の父から手紙がきて「京城にいい中学校があるからそちらにはいれ」とのことで叔母二人につきそわれて朝鮮に渡った。父は釜山と京城の中間にある永同といういなか町に住んでいたので、京城では御手洗という家にあずけられた。旧制京城中学校を経て、1922年3月東京商科大学高等商業科(現一橋大学)卒業。1922年4月東京毛織入社、5月日本陶管入社。1926年9月同社取締役。1927年5月品川白煉瓦支配人。1934年10月同社専務取締役。1935年11月品川鉱業取締役。1936年7月帝国窯業監査役。1937年3月クローム煉瓦販売取締役。1938年5月品川白煉瓦取締役社長。芦別鉱業取締役社長。8月品川企業取締役社長。1940年11月東日本耐火煉瓦工業組合理事長。12月日本特殊耐火煉瓦工業組合理事長。1941年5月常磐石炭監査役。9月日本耐火煉瓦工業組合連合会理事長。1943年3月日本耐火煉瓦統制取締役社長。1944年4月 炉材統制顧問。常磐石炭統制顧問。1946年11月復興金融委員会委員(1950年5月辞任)。1949年2月公職資格訴願委員会委員(1950年5月辞任)。4月総合国土開発審議会委員(1950年5月廃職)。持株会社整理委員(任期1950年10月まで)。1950年2月日本証券金融取締役。1950年3月国家公安委員会委員(1954年6月警察法施行により廃職)。11月失業対策審議会委員(1951年5月廃職)。1951年5月東京電力株式会社取締役。1952年3月国家公安委員会委員長に互選さる(1954年6月廃職)。1954年7月国家公安委員会委員(任期1年)。1957年6月雇用者議会委員(任期2年)。1958年12月東京電力取締役社長。1959年1月品川白煉瓦取締役会長。5月日本電気協会会長。1960年4月産業合理化審議会委員(任期1年)。12月原子力委員会専門委員(1961年2月辞任)。1961年4月産業合理化審議会委員(任期1年)。5月町名地番制度審議会委員(1962年4月廃職)。7月東京電力取締役会長。10月雇用審議会委員(任期2年)。1962年6月住居表示審議会委員(1964年3月まで)。1963年2月日本電気協会電気用品試験所理事長。12月雇用審議会委員(任期2年)。1964年12月科学技術会議専門委員。趣味は水泳、スキー、野球、読書。東京都渋谷区在籍。記念して介護福祉士を目指す学生に対する公益信託青木均一記念介護福祉士奨学基金が作られている。
出典:wikipedia
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