東莞市(とうかんし、中国語:东莞市、英語:Dongguan、歴史的表記 Tongkun)は中華人民共和国広東省中部にある地級市。28の鎮と行政の中心である区で構成される。東莞市の面積は2465平方キロメートルで、ほぼ日本の佐賀県に匹敵する。南北では50km、東西では70kmほどの広がりがある。人口は822万(2010年)。唐代の757年に、番禺(広州)の東にある、「莞草」(イグサ)の産地として「東莞」と名付けられた。珠江デルタの北東部に位置し、古くから莞城鎮(現莞城区)と、珠江、東江などの水運の要地である虎門鎮を中心に街が形成されていたが、現在の市域の多くは赤土が広がる貧しい農村だった。しかし、1980年代末に改革開放政策が取られてからは、広州と深圳、香港の中間に位置することから、香港企業、台湾企業の委託加工先や工場建設の好適地として、衣料品、日用雑貨、玩具、電子製品、パソコンまで、重工業以外の各種工場が林立する工業地帯に変貌した。特に、パソコン部品は世界の供給拠点として重要な地位を占める。また、輸出に必要な包装用段ボールを製造するための製紙工業もさかんで、中国最大の工場群もある。農業では稲作の他、野菜栽培が盛んで、香港、広州、深圳などへの重要な供給基地のひとつとなっている。旧来東莞に住み、本籍を持つ住民の人口は2012年末現在で約180万人であるが、広東語の下位方言である「東莞話」(とうかんわ)を話す地区と、樟木頭鎮、清渓鎮などの東莞市東部や深圳に近い丘陵地帯に点在する客家語を話す地区に別れる。しかし現在は、湖南省、四川省など、省外からの流入人口(2012年末時点で約650万人)が多く、標準語が広く通用している。産業の発達に伴い出稼ぎ労働者が急増し、それに伴いそれら男性相手の売春女性が増加したため、2010年代に入り「性都」の異名を取るほど性風俗産業が発達した。一説にはその規模は同市のGDPの10%に相当する500億元(約8500億円)にも達すると言われる。その中には周辺地域の高級官僚や関係者が関与しているものも確認されたため、2014年2月に関連施設の一斉摘発が行われ、1000人あまりが逮捕された。この摘発により風俗産業は壊滅し、一般のサービス産業などの客足も落ち込むなど地域経済に大きな打撃が及んだ結果、数10万人が東莞市を去ったとする報道がなされた。これに対し、「出稼ぎ労働者の性的欲求をどう解消するのか」「女性側でさえ性的欲求のはけ口を求めている」という根本的な問題は全くの手付かずであり、「摘発は単なる一時しのぎにすぎない」との批判もある。また、もともと東莞市はこの摘発より前から、ベトナム、カンボジア、バングラデシュなど、より人件費が安価な国に工場が移転するなど空洞化しており、これに風俗産業の摘発が重なり、経済に広範囲の打撃を受けている。新石器時代からの遺跡が見つかっており、古来、居住者がいたことが知られている。春秋戦国時代の百越の地であり、南越族が住んでいたと考えられる。紀元前214年、秦の始皇帝が全国を統一すると、南海郡番禺県に属した。後漢の順帝が番禺から増城県を分離させると、東莞も増城県に属した。331年、増城から分離され宝安県となった。757年に東莞と改名し、莞城に役所を置いた。1949年に中華人民共和国成立すると、東莞は東江行政区の管轄下に置かれた。1952年には粤中行政区に入り、1956年に恵陽専区に入った。1985年に国務院の批准によって珠江デルタ経済開発区に入り、同年9月には東莞県から東莞市に改称した。1988年1月に現在の地級市に昇格している。近代、林則徐が虎門鎮でアヘンを処分したことは有名である。東莞市は区(街道弁事所)と鎮で構成され、市轄区・県制度はない。以下の「片」は地理的な区分であり行政区ではない。2016年5月27日に東莞地下鉄2号線が部分開業した。東莞市の東莞聯華サッカークラブが香港Aリーグで試合を行っている。東莞藍球中心(東風日産文体中心)は同市内最大のアリーナとしてバスケットボールやコンサートなどの催しなどが行われている。もともとは広東料理、客家料理が食べられている地域であるが、省内でも独特の料理が生まれている。長安の盆菜、大嶺山のガチョウ焼きなど地域性の強いものや、竜舟飯、シマアオジの素揚げ、イトメの煮もの、鯪魚丸のように珠江デルタに共通するもの、咸湯圓やヨモギ餅、各種の米の加工品のように客家料理の一部と共通するものなどがある。ザボンの麦芽糖漬け、甘いソーセージ、味噌などの特色のある食品もある。
出典:wikipedia
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