梅 謙次郎(うめ けんじろう、1860年7月24日(万延元年6月7日) - 1910年(明治43年)8月26日)は、日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官、文部省総務長官等を歴任。法典調査会民法起草委員・商法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)学監・校長、法政大学初代総理。勲一等瑞宝章受章。松江藩(現・島根県松江市)で藩医の次男として生まれた。幼少より意思強固で議論に強く、非常な秀才ぶりを発揮した。東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科を首席で卒業した後、司法省法学校でフランス法を学び、入学当初から首席を占め、病気で卒業試験は未受験にもかかわらず、平常点だけで首席卒業。文部省の国費留学生としてフランス留学を命じられ、飛び級でリヨン大学の博士(Doctorat)課程に進学。首席で博士号を取得したが、その博士論文『和解論』は現地でも高く評価され、リヨン市からヴェルメイユ賞碑を受け公費で出版された。1891年には、ドイツ・ベルリンの法律雑誌にもその書評が掲載されている。同論文は、今もフランスでは法律百科事典に引用されており、現在もなおフランス民法の解釈論として通用している。富井政章、穂積陳重とともに、日本の民法典を起草した三人のうちの一人で、富井や穂積を欠くことはあっても、頭の回転の速い梅がいなければ決して「今日ノ美法典」を見ることはなかったであろうとの評もあり、「日本民法典の父」といわれる。もっとも、梅は拙速主義の立場から民法の構成にはあまりこだわっていなかったため、編別には穂積・富井の考えがより強い影響力を持っていたと推測されている。特に、三名の起草委員の中で指導的立場に立ったのは穂積であった。一方で法典調査会での発言回数はトップを記録しており、梅は内容面よりもむしろ民法典の早期完成に寄与するところが大きかったようである。それでもなお、伊藤博文(内閣総理大臣兼法典調査会総裁)は、「穂積君」「富井君」と呼ぶ一方で、梅に対しては「梅先生」と呼び重用した。「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」とも称され、日本の法学者の中で唯一、単独で切手(文化人シリーズ)になっているなどその功績を高く評価されている。リヨン、ベルリンでの留学から帰国するときには、帝国大学法科大学教授の職務に専念するため、私学には出講しないつもりであったが、レオン・デュリー門下で薩埵正邦(法政大学創立者)とゆかりのある富井政章(薩埵の義理の兄)やリヨン留学時代に世話になった本野一郎(当時和仏法律学校講師)が、横浜港の船内まで出向いて懇請したため、和仏法律学校の学監兼務を承諾した。以後20年間に渡り、学監、校長、初代総理として法政大学の設立、発展に大きく貢献した。他にも商法、韓国の法典起草に加わったほか、行政面でも数多くの役職を兼任するなど、多方面で精力的に活動したが、50歳で急逝した。葬儀は、東京の護国寺で法政大学葬として執り行われた。アリストテレス、トマス・アキナスを経た新自然法論を支持し、フランス法学に親和的な立場であった。梅が学んだフランス法の註釈学派は、自然法論を前提としつつも自然法が革命の原理たり得ることを否定し、一般意志によって表明された制定法こそ自然法であり、法律の解釈は、立法者の意思の探求とその演繹による体系化による法典の注釈にあるとしていたが、梅は、深淵な観念論を嫌い、制定法の枠内で実質的に妥当な解決を速やかに示す実務型の学者であった。穂積陳重は、梅の自然法論について、「現行法の規定中に自然法の根拠を求めて居るのであるから、本当の意味での自然法ではない」と評している。民法典論争においては、旧民法(及び商法)の内容に強い不満を抱きながらも、穂積・富井と異なり、裁判実務の統一及び不平等条約改正の便宜を重視して断行派にくみした。梅はその後の民商法典起草においても拙速主義を採り、民法典の編別にも穂積・富井とは異なる意見も持っていたが(現行法と異なり、親続編を第二編に置くべきとする)、自説にはさほど執着せず、内容の不備は後の改正に委ね、法典の起草を何よりも急ぐべきとする立場を維持し、完全主義の富井とは対照的な立場であった。穂積の『法窓夜話』によると、梅は、鋭敏な頭脳を持ち、法文の起草をするのが非常に迅速で、起草委員会では、他の委員である穂積、富井の二人の批評を虚心に聞き容れ、自説を改めた。しかし、一たび起草委員会としての案が決まると、法典調査会での議論においては、勇健な弁舌で反駁、弁解に努め、原案の維持を図った。これに対し、富井は、法文を沈思熟考の上起草し、起草委員会の三人の議論では、容易に自説を改めなかった。しかし、法典調査会では、反対論を受け容れる姿勢を示した。それぞれ、一理あるとの理解を示しつつ、梅謙次郎の外弁慶と富井政章の内弁慶ぶりが対照的であり、「梅博士は、本当の弁慶」であったと回顧されている。なお、梅はしばしばフランス法系の学者の代表のように扱われることがあるが、ドイツ留学者でもあり、民法典起草に当たっては[ フランス民法典ではなく][ ドイツ民法草案を最も重要な範に採ったと明言している]とも指摘されており、また、「仏国法典は既に百年の星霜を経たるものであって、且其不完全の程度は確かに我法典より甚しいのであるから、之に適合する解釈法は必ずしも之を移して我民法典の解釈法とすることを得ない」とした上で、当時の日本の私法解釈方法につき、「大体に於てヴィントシャイド氏、デルンブルヒ氏等の意見と符節を合する」と述べている事に注意すべきであると指摘されている。一方で、日本民法がもっぱらドイツ民法の模写であるという世評には反対しており、[ フランス民法にも好意的な立場を示している]。司法省法学校時代、一週間で仏文教科書300ページを完全暗記し、答案にそのまま再現したため、かえって減点されてしまった。また、民法典に関しても、全条文を完全に暗記していた。食べ物ではとにかく鰻が大好物で、法政大学の理事会の食事は鰻定食が慣例となり、梅が渡韓した時の統監府では鰻代の出費が非常に増えた。2歳年上の兄・梅錦之丞はドイツに留学後、日本人として初めて眼科の講義と診療を行い、東京大学医学部の初代眼科教授となった。森鴎外の『独逸日記』に出てくる「梅某」とは、この兄のことを指すと考えられている。妻・兼子が、小泉八雲の妻・セツの縁戚であることから、1903年に東大が八雲を解雇した際(後任は夏目漱石)、梅は八雲の相談相手となり、翌1904年9月に八雲が死去した際には葬儀委員長も務めている。
出典:wikipedia
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