大阪万博の交通(おおさかばんぱくのこうつう)では、1970年に催された日本万国博覧会(大阪万博)における会場内相互間、または万博会場へのアクセスの役割を果たした交通機関について記す。大阪万博来場者数は1970年3月15日 - 9月13日の会期183日間でのべ6421万8770人と国際博覧会史上第二位の来場者数を記録したが、それだけの人数をさばくために交通機関は大きな役割を果たすことになった。その開催が決定したのは1965年の9月14日であり、翌10月には「財団法人日本万国博覧会協会」が設立され、会期までに必要な設備を整えることが定められ、その一つとして交通機関の整備も上げられた。また、都市インフラもこれを機に一気に整備しようと言うことになり、直接は関係しないところでも交通機関整備・市街地再開発などが推し進められることになった。万博会場内を周る環状運転路線として、1968年9月からモノレールの建設工事が始められ、万博開幕の前日に開業し、閉幕日までの半年間の万博開催期間中にのみ運行された。自動列車運転装置(ATO)を採用したが、実際の運行は無人運転ではなく都営地下鉄大江戸線などと同じように扉開閉や発車ボタンを押すための乗務員が乗っていた。プラットホームは、転落防止用のホームドアが設けられていた。現在の西第1駐車場付近に側線を1線設置し、留置線と検修線を兼用した。車両デザインは、キッコーマンの醤油瓶をデザインした榮久庵憲司によるものである。先頭部は前面3枚窓のスラントノーズとなり、白を基調としたスマートな車体で、室内に突起が無い日本跨座式を初めて採用した。最初に搬入された編成では先頭部の青帯が前照灯まで回り込んでいたが、青帯を細くするように修正された。冷房装置は搭載していない(当時の東京モノレールも非冷房)。窓はバランサ付き1段下降窓を採用したが全開はできない。座席は一般的なモケットを敷き詰めたものではなく、外国人向けに配慮した硬めの座席が採用された。運行終了後は、横浜市のこどもの国にモノレールを移設する計画だったが、諸事情により移設は中止となった。万博終了後すべてのモノレール車両は検車線に留置されていたが、全車両とも現存せず車両機器の一部は東急3000系電車 (初代)の更新工事に転用されるなどした(例えばサハ3360形にMGが転用されているなど。これは運行管理が東急電鉄であったことにも関係している)。なお鉄道ピクトリアル誌1971年9月号によると、万博の事後処理を担った三井物産の仲介により東急を母体としたモノレール会社を新設、車両24両9億円相当、電気設備や桁など14億円相当を流用し田園都市線沿線で活用する構想があったとされている。レインボーロープウェイは、万博会場西口から万国博ホールまでを結んでいた遊覧用のロープウェイである。6人乗りの電気自動車が、観客タクシー輸送用に70台、関係者用に130台用意された。最高時速は8km/h程度で、タクシー料金は始め20分が100円、以後5分毎に50円であった。大阪市営地下鉄御堂筋線の江坂駅から先、千里ニュータウンの開発に備えて北大阪急行電鉄の建設が決まったが、万博開催中は中国自動車道の敷地を一時的に借りて万博中央口までの臨時線を造ることになり、開幕前の2月24日に南北線と臨時線である会場線(千里中央駅 - 万国博中央口駅)の全線が開業した。万博開催時には地下鉄御堂筋線と北大阪急行電鉄の直通列車がラッシュ時並みの最小2分半間隔で運転され、梅田駅から万国博中央口駅まで25分、新大阪駅からは20分で結び、大阪近郊からの輸送はもちろん、遠方から新幹線等で来た客の輸送も担った。約2000万から約2400万人をこのルートで輸送したという。新大阪駅まで100円(地下鉄30円)。これらの輸送に備えて大阪市営地下鉄は大型車両の30系を用意し、北大阪急行電鉄も2000系・7000系・8000系(初代)を投入(7000系と8000系は万博終了後大阪市交通局に売却されて30系に編入)した。また、道路事情が悪化した場合に備えて50系を改造した貴賓車も4両製造したが、実際には使われることは無かったという。なお大阪市では道路混雑が悪化したこともあり、1963年から路面電車を全廃して地下鉄を整備する計画を進めてきたが、万博開催決定を受けてそれを前倒しすることにした。この結果大阪市電は1969年に全廃され、その一方で地下鉄網は1965年当時の27.0kmから万博開催時には64.2kmに急拡大することになった。阪急千里線南千里駅 - 北千里駅間に、1969年11月10日から1970年9月14日まで臨時駅の「万国博西口駅」(※南千里駅から2.2km地点)を設置して輸送に備えた。万国博西口駅は約900万人が利用したといわれ、神戸本線・宝塚本線方面から十三駅で折り返して直通する臨時列車「エキスポ直通」や団体専用列車も設定された。また、梅田駅・大阪市営地下鉄堺筋線 - 北千里駅間に設定された臨時準急列車「エキスポ準急」は、万国博西口駅までを30分弱で結んだ。天神橋筋六丁目駅まで70円。他に、京都本線には南茨木駅を1970年3月8日から臨時駅(閉幕と相前後して常設駅に変更)として新設、同駅からシャトルバスで輸送することにし、万博開催中は特急や急行も臨時停車させることにした。国鉄では、これを機に東海道新幹線「ひかり」の編成をすべて16両編成に増強し、「こだま」を主にして臨時列車も多く設定した。万博旅行の際に初めて新幹線に乗ったという人は多いといわれ、新幹線は「万博パビリオンのひとつ」と呼ばれたともいう。また、東海道本線の茨木駅を橋上駅舎化して駅前広場を整備し、会場までバス連絡とした。万博開催中は同駅に「万博東口駅」の副称をつけて快速列車の停車駅とし、万博終了後に正式な快速停車駅に格上げされた。大阪駅まで60円。さらに、名古屋駅 - 新大阪駅間に快速「エキスポ」号を1往復、河瀬駅 - 茨木駅間と茨木駅 - 西明石駅・網干駅間に快速「万博」号を計3往復設定した。快速「エキスポ」号は名古屋駅・尾張一宮駅・岐阜駅・大垣駅・米原駅・彦根駅・草津駅(下りのみ)・大津駅・京都駅・茨木駅・新大阪駅に停車し、全車指定席であった。快速「万博」号は、河瀬駅 - 京都駅間の各駅・高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅・芦屋駅・三ノ宮駅・元町駅・神戸駅・兵庫駅・明石駅・大久保駅 - 網干駅間の各駅に停車し、西明石駅発着のみ西明石駅に停車した。この快速「万博」号は113系で運用されたが、東京の横須賀線で使用されていた編成を関西に転入させたものがあり、車体色が湘南色ではなく、関西にはないスカ色であった。万博終了後、この転入113系を使用して運転を開始したのが、「新快速」である。その他に新大阪駅発三島駅行きで、三島駅で東京駅行きの新幹線「こだま」に連絡する臨時夜行急行列車「エキスポこだま」も設定された。高速バスとして、名古屋駅から名神高速道路を経由して中央口までいく所要2時間20分のハイウェイバスが設定されたほか、名古屋駅 - 大阪駅間を結ぶ定期便も同地を経由させ、ドリーム号もいくらか増発させた。茨木市にエリアを持つ、阪急バス、近畿日本鉄道(現・近鉄バス)、京阪自動車(現・京阪バス)の3社が「ピストンバス」を南茨木駅、国鉄茨木駅から頻発させた。また、中央環状線を経由して府内各地からも路線バスが設定された。なかでも国鉄茨木系統はピーク時に1時間に189回、19秒間隔で運行されることが要求され、国鉄茨木のバス発着場12バース、会場東口には10バースの発着場がフル活用された。また、会場東口には各社から派遣された社員で構成する万博営業所を臨時に設置し、輸送体制に万全を期した。この他、地方からの会場直結バスが以下の場所との間に運行された。以下の総運行回数は148.5 - 152.5回/日となる。日本航空が「オフィシャル・エアライン」となり、ほぼすべての機材に万博のロゴマークを入れて運行したほか、来日した外国人観光客のために国内周遊パッケージツアーを主催した。また、開催前年7月には、アメリカやカナダを回る「万博PRキャラバン隊」への協賛を行った。以下の特別企画乗車券が発売された。その他、阪神電気鉄道・京阪電気鉄道なども大阪市営地下鉄・北大阪急行電鉄・京阪神急行電鉄の「万国博中央口駅」・「万国博西口駅」までの一体往復割引乗車券を販売していたが、それら切符の多くは「中央口」・「西口」の両方が使えるよう、運賃が高い「中央口」経由のほうの、「西口」経由との差額分の追加賃を払えば、どちらの経路でも乗れるようにもしていた。
出典:wikipedia
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