北村 稔(きたむら みのる、1948年 - )は、日本の歴史学者。立命館大学名誉教授、日本「南京」学会会員、国家基本問題研究所客員研究員。中国近現代史専攻。法学博士。京都府出身。京都大学文学部史学科(現代史専攻)卒業。京都大学大学院博士課程中途退学。三重大学助教授、立命館大学文学部教授を歴任。本書では、南京軍事法廷および極東国際軍事裁判において南京事件を確定した「戦犯裁判」の判決書を歴史学の手法で検証するという立場で分析、従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘してきた資料で確認する一方で、判決書にみえる、南京攻略戦から占領初期にかけて一般市民に対する数十万単位の「大虐殺」が行われたという「認識」については、中国や連合国による各種の戦時宣伝の分析を通じ、1937年以降、徐々に形成されていったものとした。南京および中国各地において日本軍が暴虐を行っていると告発した在中国ジャーナリストハロルド・J・ティンパーリは、日中戦争開始直後から中国国民党中央宣伝部の対外宣伝に従事、資金提供を受けて編著『戦争とは何か』(What War Means)を出版したと主張している。また、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したかという、歴史研究の基本に立ち戻った立場から、研究をはじめている。北村は、中国社会科学院近代史研究所翻訳室編『近代来華外国人名辞典』(1981年)に、ティンパーリが「1937年盧溝橋事件後、中国国民党により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と記述されていることや、王凌霄による研究『中国国民党新聞政策之研究』(1996 年)および国際宣伝処処長曽虚白の回想記に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性を示唆している。『「南京事件」の探究』 をはじめとする研究を経た、2007年4月2日の外国特派員協会での講演では「旧日本軍が南京で"無秩序"や"混乱"に陥って便衣兵や捕虜を殺害したことはあったが、一般市民を対象とした"虐殺"(massacre)はなかったとの結論に達する」と発表している。『諸君!』2002年1月号では、 櫻井よしこ 、鈴木明・石川水穂(産経新聞論説委員)・阿羅健一らによって北村説が肯定的に紹介された。2003年には東中野修道が、日本軍が南京を占領した1937年12月以後約3年間の中国国民党の宣伝工作を記録した「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要」という1941年に作成された文書が発見されたことをうけ、同文書の中に『外国人目睹之日軍暴行』("What War Means"の中国名)が紹介されていることから、ティンパーリの著作は中国国民党の宣伝書籍であると、北村の論を補完した。『週刊金曜日』2002年8月2日(No.422)は、 笠原十九司が北村を「南京虐殺否定論者」としたうえで批判、渡辺春己、ボブ・若林正 、井上久士 らによる批判と否定的な見解が示された。渡辺久志は中国帰還者連絡会の機関誌上で、曽虚白が、ティンパーリが日本軍占領下の南京にいたとする誤りを前提として語っていることなどを指摘、この証言には問題があるとし、また、曽虚白は当時ティンパーリが中央宣伝部と関係があったとはしていない(関係があったと書いているのは王凌霄)として北村説を批判している。また、井上久士は「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」には「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」とあり、曽虚白の回想記の「二冊の本を書いてもらった」という記述は誤りと主張している。笠原十九司は2007年には渡辺と井上の論文に依拠しながら、「曽虚白の自伝は、自画自賛的で信憑性がない」と断定し、さらに北村稔の最大の「トリック」は、ティンパレーが国民党の宣伝工作員でないときに執筆した「戦争とは何か」を、国民党のスパイとして書いたかのように思わせようとした点であると指摘し、また北村は「裁判における起訴状と判決書の区別もできずに、裁判官がティンパレーの本から引用して判決文を書いたとするなど、裁判のイロハがわかっていない」と再び批判した。
出典:wikipedia
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