国際プロレス(こくさいプロレス)は、日本のプロレス団体。正式名称はインターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社 ("International Wrestling Enterprise")。略称はIWE。1967年1月5日、大阪府立体育館にてアントニオ猪木の東京プロレスとの合同興行で旗揚げ。TBSと東京12チャンネル(現:テレビ東京)で定期放送されていた。テレビの定期放送終了の半年後、1981年8月9日の北海道羅臼町大会で活動を停止し、同年9月30日に解散した。団体名の名付け親はプロレス評論家の菊池孝という説があったが、本人は小佐野景浩が2010年に行なったインタビューでこれを明確に否定しており、「吉原さんが考えたんじゃないかな」と語っている。会社事務所は当初は東京都港区青山に置いたが、1970年に渋谷へ移転し、1972年に新宿区高田馬場の原田ビル(現在の新陽ビル)に移転して解散まで使用した他、道場は当初は青山や渋谷の事務所と同居だったが、1973年に埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)へ移転した。大宮にあった道場は埼玉県道35号(産業道路)沿いでなおかつ京浜東北線与野駅とさいたま新都心駅(当時はさいたま新都心駅は未開業)の中間付近に所在していた。金網デスマッチの開催、選手入場時のテーマ曲の採用、日本人選手同士の対戦、日本人覆面レスラー(覆面太郎)の登場、日本人ヒールユニット(独立愚連隊)の結成、専用移動バスの導入、移動体育館の導入、外国人留学生制度など、当時としては斬新だった事例を他団体に先駆けて取り入れるなど、進取の気風に富んでいた。創業者の吉原功社長は、早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレスの営業部長を務めていた。しかし、力道山の死後、経理担当取締役の遠藤幸吉とリキ・スポーツパレスの売却問題を巡って対立。1966年10月5日に日本プロレスを退社し、新団体の国際プロレス(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社)を設立する。創業当初は陣容が手薄だったこともあり、旧来の「団体」という形ではなく、シリーズごとに選手と出場契約を交わし、試合をするリングのみを提供するという、アメリカのプロレス業界と同様のフリーランス・システムを提唱、プロダクション的な「興行会社」のスタイルを志向していた。同年10月24日の役員人事発表の際にも、吉原は「団体間で潰し合うことはせず、日本プロレス界の発展に尽力したい。プロレスは相撲の社会とは違う。アメリカと同様のスタイルのスマートな団体とする」などと会見した。そのため、当初は日本プロレスにも協力を求めていたが、日本プロレス側はこれを拒絶、この構想は機能することなく、自前の所属選手を抱えて興行を打つ従来型のプロレス団体への転換を余儀なくされた。なお、日本のプロレス団体で最初に所属選手の契約書をつくったのは国際プロレスである。アメリカで活躍する日本人プロレスラーのヒロ・マツダをエース兼ブッカーとし、日本プロレスからマツダの日体荏原高校時代の後輩マティ鈴木およびアマチュアスポーツのトップアスリートだった杉山恒治(サンダー杉山)と草津正武(グレート草津)を同道した。旗揚げに際しては、国際プロレスに先んじて旗揚げしたものの興行不振で単独での興行能力を失っていた東京プロレスからアントニオ猪木らが参加し、合同興行の形で『パイオニア・シリーズ』と銘打たれた旗揚げシリーズを1967年1月に開催。合同興行とはいえ主催は国際プロレスで、東京プロレス側にギャランティーを支払うという形で話がまとまった。ダニー・ホッジ、ザ・ケンタッキアンズ(ジェイク・スミス&ルーク・ブラウン)、エディ・グラハム、ジョニー・バレンタインを招聘し、アメリカでもコンビを組んでいた猪木とマツダのタッグや、アメリカサイズのリング、タレントによるリングアナウンスなどの演出も注目を集めたが、テレビ局との放映契約を結べなかったこともあり、興行は振るわず東京プロレスとの提携もこの旗揚げシリーズのみで破綻する形となった。この時、猪木は永源勝(永源遙)、北沢幹之、柴田勝久らと日本プロレスへ帰参したが、木村政雄(ラッシャー木村)、寺西勇らは国際プロレスに残留した。猪木らの離脱と入れ替わるように、旗揚げ興行に参加しなかった豊登が参戦し、マツダとのタッグが看板チームとなった。しかし、戦力、資金、テレビ中継の有無でも日本プロレスとの差は歴然とし、1967年8月14日に大阪で行われた日本プロレスとの興行戦争(日本プロレスは大阪球場、国際プロレスは大阪府立体育館でそれぞれ開催。日本プロレスのメインイベントはジャイアント馬場VSジン・キニスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦、国際プロレスのメインイベントはヒロ・マツダ&サム・スティムボートVSロジャー・カービー&ビル・ドロモ戦)は「大阪夏の陣」として話題となったが、宣伝において飛行機によるビラまき作戦などを駆使して2万人の観衆を集めた日本プロレスに対し、国際プロレスは4200人の観客動員で終わるなど、興行面で惨敗してしまう(興行の開催は国際プロレスが先に発表しており、日本プロレス側がそれに対抗して戦争を仕掛けた形となった)。吉原はTBSとフジテレビに対してテレビ中継に関する交渉を開始し、TBSも1967年1月に国際プロレスへの信用調査を開始し、同年2月に「定期放送に値する団体である」と結論付け、上申書には「猪木とマツダの試合を放送するのが絶対条件」の一文を付け加え、TBSは吉原に対して猪木の国際プロレス入団を要請した。TBS社長の今道潤三は1967年4月4日の記者会見で、「プロレス中継参入に関して検討しており、国際プロレスとの打ち合わせを開始した」と会見した一方で、2日後の4月6日には猪木の日本プロレス復帰会見が行われ、これによりTBSによる猪木の国際プロレス入団計画は頓挫した。最終的にTBSとフジテレビの2局とも放送にゴーサインを出したが、吉原はTBSを選択した。そして同年9月11日、TBSとの放映契約が締結され、調印式には国際プロレス側からは吉原が、TBS側からはTBS運動部部長の鶴田全夫とTBS運動部副部長の森忠大が出席した。国際プロレスは資金調達の名目で、吉原功の早稲田大学時代の友人である森の仲介により、広島の乳業会社社長だった岩田弘に株を譲渡して融資を仰いだ。この結果、岩田が国際プロレスの新しいオーナーとなり、TBSのバックアップを受ける形で仕切り直しを行うこととなった。また、同時期にヒロ・マツダが負債処理方法をめぐって吉原と対立し、国際プロレスを離脱。マツダに代わる外国人招聘のブッカーとして、4年前に日本プロレスの契約を打ち切られたグレート東郷が迎えられた。同年11月7日、TBSによる全国中継開始の記者会見が行われ「来年1月からの中継開始」が発表された。会見には鶴田と森および岩田が出席したが、吉原は姿を現さなかった。そのため、吉原はTBSと岩田によって蚊帳の外に追いやられ、団体の運営を彼らに掌握されたと考えられていたが、当時の吉原は国際プロレスが赤字続きだったため多重債務を抱えており、公の場に出られる状況ではなかったという。東郷にブッカーを委ねたのは吉原自身であり、放送責任者の森はテレビ中継、新オーナーの岩田は経営と、それぞれの立場から団体運営のハードの部分には携わっていたものの、ブッキングやマッチメイクなどリングの上に関するソフトの部分には、それほど関与していなかった。1967年12月22日、森が記者会見を行い「TBSが放送する番組名並びに団体名はTBSプロレスとする」と発表した。そして1968年1月、TBSのネームバリューを活かして団体名を『TBSプロレス』と改称し、ルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ハンス・シュミット、ワルドー・フォン・エリック、ブルドッグ・ブラワー、レフェリーのフレッド・アトキンスなどの豪華外国人を招聘して第1弾シリーズの『オープニング・ワールド・シリーズ』を開幕。当日は力道山の未亡人である百田敬子、息子である百田義浩と百田光雄も招待されていた他、大相撲力士時代の天龍源一郎も観戦に訪れていた。森の意向で新人のグレート草津がエース候補に抜擢され、テレビ中継は『TWWAプロレス中継』として開始した。1月3日のテレビ放映第1戦は前述の「大阪夏の陣」以来となる日本プロレスの蔵前国技館とTBSプロレスの日大講堂の同一日興行となり、「隅田川の対決」または「隅田川決戦」などと呼ばれマスコミの話題となった。日本プロレスは、当初は1月4日に岡山でシリーズを開幕させる予定だったが、TBSプロレスの日大講堂大会が開催されることを聞きつけたために、急遽割増使用料を支払って蔵前でのシリーズ開幕に変更して興行をぶつけた。日本プロレスのメインイベントはジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦で、当日は水曜日だったが日本テレビは17時30分から1時間枠で特番枠で放送、国際プロレスのメインイベントはルー・テーズに草津が挑戦したTWWA世界ヘビー級王座戦で19時からの放送開始に合わせて行われた。しかし、草津はテーズのバックドロップに失神KO負けを喫し、新エース誕生というTBSの構想は頓挫、興行面でも「大阪夏の陣」同様、再び日本プロレスに惨敗してしまう。以降プロレス界は日本テレビとTBSのテレビ2局の対立時代に入った。TBSが支払うテレビ放映権料は1回あたり220万円と、日本テレビが日本プロレスに支払う放映権料(1回あたり200万円)を上回っていた。ところが、『TWWAプロレス中継』の開始から間もなく、プロレス業界の前時代的な経営体質に失望した岩田が吉原と決別して撤退。リング上においても、草津が1月8日に鹿児島県体育館でテーズとの再戦を行うも再び敗退。放送第2週の1月10日の大分県立荷揚町体育館ではサンダー杉山をテーズにぶつけるが杉山も敗れ、1月12日には九電記念体育館で豊登がテーズと対戦したが、豊登も敗退してしまう。放送第3週の1月17日には、仙台・宮城県スポーツセンターにおいて豊登VSテーズの再戦が予定されていたが、東郷は豊登に代わって日本プロレスから大木金太郎を引き抜いてテーズと対戦させようと計画、大木も一旦は承諾して仙台へ向かったものの、日本プロレスにもこの情報が入り、引き留め工作により大木の引き抜きは失敗に終わった(試合は当初の予定通り豊登VSテーズ戦が行われ、テーズが勝利。その翌日の1月18日、日本プロレスのユセフ・トルコと松岡巌鉄が東郷の宿泊先に押しかけて暴行を加えるという事件が起き、警察沙汰となって一般新聞でも大きく報道された)。さらに同年2月19日の『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』静岡県浜松市体育館大会では、ブッキング料を巡る金銭上のトラブルから、招聘した外国人選手(ファビュラス・カンガルーズのアル・コステロ&ドン・ケント、フレッド・カリー、『オープニング・ワールド・シリーズ』から残留参戦したダニー・ホッジとブルドッグ・ブラワー)の試合出場を東郷がボイコットする事件が発生。この影響で2大会を日本人選手のみの興行とし、2月21日放送の『TWWAプロレス中継』は急遽、前月の1月12日に行われた九電記念体育館大会の録画中継に変更された。ボイコット翌日の2月20日に団体側が記者会見を行い、東郷との絶縁を発表。2月23日には東郷と外国人選手が会見し、団体との契約を破棄して帰国することを発表した。これら一連の緊急事態を受け、イメージの悪化を懸念した局側の申し入れにより団体名は再び『国際プロレス』に戻り、団体は新路線を模索することとなる。吉原は、当時早稲田スポーツ部OB会長の座にあり、レスリング部OBの吉原にとっても柔道部OBの森にとっても近しい存在だった日本レスリング協会会長の八田一朗の紹介を受けて新たにヨーロッパからの外国人選手ルートの開拓に成功した。しかし、グレート東郷による外国人選手ボイコット事件の余波は『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』の次期シリーズである『日・欧 決戦シリーズ』にも影響し、同シリーズは全9戦という日程となった。また、東郷とのトラブルを受けての急遽の招聘だったこともあり、ヨーロッパからの外国人選手は就労ビザではなく観光ビザでの来日となったため、開幕戦である2月28日の栃木県足利市月丘高校体育館大会(メインイベントは豊登&杉山VSトニー・チャールズ&リー・シャロンのTWWA世界タッグ王座戦)は入場無料のチャリティー興行へ急遽変更されたが、生中継は予定通り行われた(翌日に香港に飛んでビザを切り替え、第2戦からは通常の興行開催が可能となった)。同シリーズは開催までの期間がほとんどなかったため宣伝はまったく行われず、パンフレットを販売しない会場もあった。日本プロレスにおける国際プロレスに対する妨害工作はその後も続き、後楽園ホールは、日本プロレスが日本テレビと読売新聞グループを使ったコネクションによる工作で、『NETワールドプロレスリング』(NETテレビ〈現・テレビ朝日〉)開始まで使用できなかったほか(都内の中規模会場での興行は区立の体育館の使用を強いられた)、外国人選手の招聘でも妨害をかけ(後述)、さらに日本プロレスは1968年8月3日の国際プロレス横浜スカイホール大会の裏に横浜市南区で興行を急遽ぶつけて7000人の観衆を集めている(国際プロレスは実数1000人未満)。当時の日本プロレス界はプロレスのメッカであるアメリカから大物外国人を招聘することがステータスの時代だった。国際プロレスでは設立当初、ヒロ・マツダをエース兼ブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者とした。しかしマツダは1967年の2シリーズの終了後、TBSの放送開始を待たず、同年秋までに離脱してしまう。そこで国際プロレスは日系レスラーの大物グレート東郷にブッキングを依頼した。東郷はかつて日本プロレスのブッカーを務めていたが、力道山の死後は絶縁状態となっていた。東郷はカナダ(トロント地区)のプロモーターであるフランク・タニーを代表としてTWWAを設立。1968年1月、初代TWWA王者として認定されたルー・テーズを初めとする大物レスラーを招聘してシリーズを開催、TBSの放送も開始された。しかしその東郷とも同年2月には前述のトラブルから離別し、国際プロレスは北米ルートを完全に遮断されてしまう。そのため吉原功は八田一朗の力を借り、それまで日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパのマット界との提携に乗り出し、ジョージ・レリスコウ主宰のジョイント・プロモーションズとのコネクションを形成していく。これによりビル・ロビンソン、ビリー・ジョイス、トニー・チャールズ、アルバート・ウォール、パット・ローチ、ワイルド・アンガス、アル・ヘイズ、ダニー・リンチなどのイギリス勢をはじめ、西ドイツのホースト・ホフマン、フランスのモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)、スイスのジャック・デ・ラサルテス、そして欧州を主戦場としていたカナダ出身のジョージ・ゴーディエンコなど多くの強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。なお、このヨーロッパのコネクションと吉原が協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAである。欧州ルートを確立しつつ、ジョイント・プロモーションズとのつながりでカルガリーのスタンピード・レスリングともコネクションを築き、このルートでスタン・スタージャックやスタン・ザ・ムースなどが来日。また、フリーランス選手の清美川梅之のブッキングでダニー・リトルベアやオックス・ベーカー、シャチ横内のブッキングでバディ・コルトやゴージャス・ジョージ・ジュニアらを招聘するなど、アメリカのルートも少しずつ繋がり始めたが、NWAのコネクションは日本プロレスが握っていたため、NWAに次ぐアメリカのメジャー団体だったAWAに接近する。1970年2月にAWAの実質上のオーナーであり、現役世界ヘビー級王者のバーン・ガニアが来日して国際の主力勢を相手に防衛戦を行い、「AWA極東支部」の看板を掲げ本格提携がスタートした。以降はガニアやエドワード・カーペンティア、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションをはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラーを数多く招聘、日本プロレスと遜色ない顔ぶれが揃うようになった。また、この提携はアンドレ・ザ・ジャイアントのアメリカ進出の契機ともなった。一方で、1972年に旗揚げした新日本プロレスが、カール・ゴッチをブッカーにヨーロッパの選手を招聘するようになったこともあり、欧州マットとの繋がりは薄れていった。1974年11月にはシングル王者のガニアと、タッグ王者のニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを同時招聘しての豪華な興行も開催された。しかし、AWAが要求する高額な提携料は団体の運営を圧迫させることとなったため、1975年2月をもってAWAとの提携を解消し、同年3月よりカナダのカルガリーに大剛鉄之助を支部長とする北米支部を設置して新たな招聘窓口とした。のちの関係者の回想によると、ガニアから「自分たち(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、吉原が大剛を選んだとされている。カナダのルートでは「ギャラは安いが中身が凄い外人選手」を発掘し、キラー・トーア・カマタやジプシー・ジョーなど、当時のエースだったラッシャー木村と手の合う流血派のラフファイターが中心となったが、AWA時代と比べ外国人選手のネームバリューはスケールダウンすることとなった。大剛ルート以外では、新日本プロレスや全日本プロレスと接点の無かったアメリカのガルフ・コースト地区(リップ・タイラーのルートによるリー・フィールズ主宰のGCCW)、テネシー地区(ジプシー・ジョーのルートによるジェリー・ジャレット主宰のCWA)、ミッドサウス地区(グリズリー・スミスのルートによるビル・ワット主宰のMSWA)、最末期にはマッハ隼人の仲介でメキシコのEMLLからも選手を招聘した。1979年から1980年にかけてはAWAルートも一時的に復活、ヘビー級王者となっていたボックウインクルが来日して防衛戦を行い、ガニアの再来日も実現したが、本格的な提携再開には至らなかった。古くからコネクションを持っていたカルガリーのスタンピード・レスリングからは、大剛ルートではキラー・トーア・カマタをはじめビッグ・ジョン・クインやキラー・ブルックスなどエース級の選手が来日し、1970年代後半の外国人招聘ルートの主軸となった。しかし、1979年7月のダイナマイト・キッド初来日を機に、当時国際プロレスと交流していた新日本プロレスは、大剛と反目していたミスター・ヒトを通じてスチュ・ハートに急接近。ハートは最終的に新日本プロレスを日本での提携先として選択し、国際プロレスはカルガリー・ルートを遮断されてしまった。前述の通り日本プロレスの全盛時は、大物外国人をなかなか招聘できずに苦戦していた。しかし欧州やAWAとの提携路線を敷いて以降は、後にNWAやWWFなどアメリカのメジャーテリトリーや他団体の新日本プロレスおよび全日本プロレスで活躍する選手の中には、国際プロレスが初来日となったケースは多い。欧州ルートのビル・ロビンソンやアンドレ・ザ・ジャイアントのほかにも、AWAルートではダスティ・ローデス、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエル、スーパースター・ビリー・グラハム、バロン・フォン・ラシク、ケン・パテラ、そして当時無名の存在だったリック・フレアー、カナダやアメリカ中南部のルートからはワイルド・サモアンズ、リック・マーテル、デビッド・シュルツ、ジェイク・ロバーツ、ビッグ・ダディ・リッター、ダイナマイト・キッドなどがいる。東京12チャンネル(現:テレビ東京)によるレギュラー中継終了直後の1981年4月(『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』)にも当時「まだ見ぬ強豪」として初来日が待望されていたポール・エラリングとスティーブ・オルソノスキーを招聘しており、未来日の新鋭レスラーのブッキングには最後まで意欲的であったが、レギュラー中継終了前後には4人を呼ぶのがやっとの状態でもあった。TBSの『TWWAプロレス中継』におけるカラー放送での実況中継は、すでにカラー放送を実施していた『日本プロレス中継』(日本テレビ)のみならず、1969年7月に始まった『NETワールドプロレスリング』(NETテレビ)にも先行される形となり、『'70ワールド・チャンピオンシリーズ』中の1970年4月22日(カラー化初回は4月13日に開催された北九州市若松大会の録画中継)になってようやく開始された他、後楽園ホールにおける興行も、1970年4月16日にようやく初興行が行われた。その半年後の1970年10月8日、『'70ダイナマイト・シリーズ』大阪府立体育館大会において、日本初の金網デスマッチであるラッシャー木村VSドクター・デス戦が、事前に告知されることなく行われた。テレビでは翌週の10月14日に録画中継された。この金網デスマッチが決行された伏線として、同シリーズの目玉選手として招聘を予定していたスパイロス・アリオンの参加キャンセル問題があった。当時、国際プロレスはヨーロッパルートに加え、NWAと比肩していたバーン・ガニア率いるアメリカのメジャー団体AWAと提携し、ネームバリューのある外国人レスラーを招聘できる体制が整ってきていた。そこで、国際プロレスは1970年6月にデイリースポーツの協力を得て、未来日の外国人選手をファン投票をもとに招聘する『あなたがプロモーター』なる企画を行い、1位となったアリオンや2位のミル・マスカラスを含む投票上位選手の招聘を計画した。しかし、圧倒的な海外ネットワークを持つ日本プロレスにことごとく妨害された。アリオンも一度は来日に合意し、シリーズのポスターに写真が掲載されていたにもかかわらず土壇場でキャンセルとなったため(アリオンとマスカラスは翌1971年2月に日本プロレスに初来日)、当初予定していたサンダー杉山とのIWA世界ヘビー級王座戦も中止に追い込まれた。その代替カードとして浮上したのが、遺恨が発生していた木村とドクター・デスの決着戦であり、完全決着戦として日本初の金網デスマッチが実現することとなった。TBSサイドも、『TWWAプロレス中継』の視聴率が1970年に入ってから低下していたため、視聴率回復を図るため放送したという。関係者は急遽、アメリカで行われた金網デスマッチの写真を参考に金網を製作したが、余りにも急なことだったため、金網に出入口を付け忘れてしまったという珍事が起きている。国際プロレスにおける金網デスマッチのルールは反則攻撃は可能で、ノックアウトまたはギブアップでの決着であり、ノックアウトの場合は相手をピンフォールして3カウントを奪った後、レフェリーがさらに10カウントを数え、相手がノックダウン状態のままカウント内に立ち上がれなければKO勝ちとなるというボクシングと同様のもので、アメリカでは一般的なエスケープ・ルール(金網から脱出した選手が勝者となるルール)とは異なっていた。金網デスマッチが行われる大会のポスターは通常版の他に、金網デスマッチ開催告知用も用意されていた。国際プロレスとしては、金網デスマッチはラッシャー木村VSドクター・デス戦の一回限りと考えており、TBSもこの試合のみで金網デスマッチの中継を封印した。しかしその後、全国のプロモーターからは金網デスマッチ開催の有無で興行収入が違ってきていたため、金網デスマッチの興行開催を要求され、その要望が多かったことからタイトルマッチでも金網を使用するようになるなど乱発を余儀なくされ、時にはチェーン・デスマッチやインディアン・ストラップ・マッチを併用する場合もあった。その後、木村に負担をかけすぎないよう、木村以外の選手も交代で金網デスマッチに出場することになり、その結果、マンネリ化により団体の首を絞める結果となってしまうばかりか、放送カードに自主規制をかけた『TWWAプロレス中継』の低迷の遠因ともなった。1971年3月2日は、またも日本プロレスとの興行戦争になったが(日本プロレスは蔵前国技館、国際プロレスは東京都体育館)、当初国際プロレスは「マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションを呼んでビッグマッチを行う」としていただけで公式なカードを発表していなかった。一方の日本プロレスは、BI砲VSスパイロス・アリオン&ミル・マスカラスのインターナショナル・タッグ王座戦を行うことを発表したため、このままでは国際プロレスに勝ち目はないことは明らかであった。そこで、国際プロレスはラッシャー木村VSザ・クエッションの金網デスマッチで日本プロレスに対抗、前年12月12日のオックス・ベーカーとの金網デスマッチで左足を複雑骨折した木村はギブスを装着したまま強行出場したが、「大阪夏の陣」「隅田川の決戦」同様に、またしても日本プロレスに惨敗してしまう(今回も国際プロレスが先に発表した興行開催に合わせ、日本プロレスが3月3日に予定していた日程を急遽1日前倒し、興行をぶつける形となった)。ラッシャー木村以外の主力選手の金網デスマッチ初戦は、サンダー杉山が1971年2月28日の岩手県営体育館でのマッドドッグ・バション戦、ストロング小林が1971年10月26日の千厩でのダニー・リンチ戦、グレート草津が1972年6月30日の岐阜市民センターでのバロン・シクルナ戦、マイティ井上が1973年2月27日の愛知県体育館でのホセ・クィンテロ戦、アニマル浜口が1973年7月9日の大阪府立体育館でのバディ・ウォルフ戦、阿修羅・原が1979年4月22日の加賀大会でのザ・UFO戦であった。また、国際プロレスの主要タイトルの防衛戦における金網デスマッチは、IWA世界ヘビー級王座では1972年1月27日の横浜文化体育館でのストロング小林VSカーティス・イヤウケア戦、IWA世界タッグ王座では『TWWAプロレス中継』打ち切り翌日の1974年3月31日の釧路市厚生年金体育館でのラッシャー木村&グレート草津VSジム・ブランゼル&ザ・ブルート戦、WWU世界ジュニアヘビー級王座では1979年11月7日の弘前における阿修羅・原VSジプシー・ジョー戦において初めて行われた(IWA世界ミッドヘビー級王座では金網デスマッチは行われなかった)。1972年に入ると、金網デスマッチが行われた興行は、前述の小林VSイヤウケアのように超満員札止めの興行もあった。そうした中、全日本プロレスを設立したジャイアント馬場が国際プロレスに特別参戦する2日前の1972年11月27日、『ビッグ・ウインター・シリーズ』愛知県体育館大会で日本初の金網タッグデスマッチ、王者チームのディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーにストロング小林&グレート草津が挑戦するWWA世界タッグ王座戦が行われた。日本プロレスは同年11月21日に愛知県体育館で興行を行っていたため、名古屋での興行戦争となったが、日本プロレス側の観客動員が実数2000人(主催者発表は4000人)に対し、国際プロレスの前売りチケットは完売となり(8500人の超満員札止め)、興行面では国際プロレスの勝利となった。しかし試合自体は、外国人組が日本人組とレフェリーの阿部脩をノックアウトし、彼らをリングに残したまま、サブレフェリーの前溝隆男にも暴行を加えた上で金網の出入口から脱出して控室に戻るという不透明決着となる(結果は無効試合となり、王者チームの外国人組がタイトルを防衛)。これは、外国人側が前述のノックアウト・ルールを理解せず、アメリカで一般的なエスケープ・ルールと誤認していたためであるが、この決着に納得しない観客が暴動を起こすという事態に発展。国際プロレスは1973年2月27日に愛知県体育館で入場無料のお詫び興行を行うと発表したが、暴動は収まらず、国際プロレスは愛知県警察に出動を要請し、機動隊約90人が出動する騒ぎとなり、翌日のスポーツ紙にも掲載された。なお、小林とリソワスキーは翌11月28日に静岡で行われたIWA世界ヘビー級王座戦でも金網デスマッチで対戦している(小林&草津VSブルーザー&リソワスキーの再戦は3日後の11月30日、茨城県立スポーツセンター体育館にてWWA世界タッグ選手権とIWA世界タッグ選手権とのダブルタイトルマッチとして行われたが、この試合は金網デスマッチではなく通常の試合形式で行われ、12月24日に録画中継された)。入場無料のお詫び興行も予定通り1973年2月27日に行われている(1972年11月27日の半券を所持していた観客のみ入場無料となった。当日のメインは前述の井上VSクィンテロ)。1973年11月28日、横浜文化体育館にて日本初の金網インディアン・ストラップ・マッチとしてグレート草津VSワフー・マクダニエルが行われた。この際のルールは、相手をノックアウトした後、相手を引きずってリングを2周すれば勝利するというものであった(アメリカでは1周ルールが一般的)。当日は番組収録も行われており、マイティ井上VSデーブ・ラーセンが12月15日に、ストロング小林&ラッシャー木村VSオレイ・アンダーソン&ジン・アンダーソン(ミネソタ・レッキング・クルー)が12月22日にそれぞれ録画中継された。また、1974年6月5日には米沢にて、日本初の金網チェーン・デスマッチとしてラッシャー木村VSセーラー・ホワイトが行われた。1974年9月に『国際プロレスアワー』としてレギュラー中継を再開した東京12チャンネル(現:テレビ東京)では金網デスマッチの放映を解禁した。東京12チャンネルにおける金網デスマッチ中継初回は、同年7月5日に行われた『'74ビッグ・サマー・シリーズ』鹿児島県鹿屋大会のラッシャー木村VSザ・キラー戦で、両者による金網チェーン・デスマッチを7月29日に『月曜スポーツスペシャル』枠で録画中継した。『国際プロレスアワー』は後述の通り基本的に録画中継だったため、凶器攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映し、そのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。東京12チャンネルにおける金網デスマッチの中継は、レギュラー放送では1980年7月25日に札幌中島スポーツセンターで行われたマイティ井上&アニマル浜口VSスパイク・ヒューバー&ロッキー・ブリューワーのIWA世界タッグ王座戦(同年8月25日に録画中継)、特番枠移行後では1981年5月16日に後楽園ホールで行われたポール・エラリング&テリー・ラザンVSマイティ井上&阿修羅・原のIWA世界タッグ王座戦(同年9月16日に録画中継)がそれぞれ最後となったが、金網デスマッチ自体は崩壊当日まで行われた。プロレスの野外興行は雨が降ると、プロモーターが雨天決行もしくは雨天中止を選択しざるを得ない。当時は交通費節約のため前者を選択するのが大半で、後者の場合は順延日がサーキットの日程にマッチングしないことも少なくなかった。国際プロレスは、交通費などの経費節約のため、移動体育館の導入を決定した。考案者は北海道出身の名物レフェリーであった阿部脩で、本体はサーカスのテントを模したもので、4時間で設営完了するというものであったが、実際はレッカー車を使用して2時間で設営できた。当時野外会場で問題となっていた入場券を持たない観客が観戦することを防止することにも役立った。移動体育館導入に伴い、国際プロレスは設営のためのレッカー車を導入した。観客席は当時の屋外会場の主流であったゴザ敷ではなく、長椅子を用意し、野外会場における観戦環境の改善にも役立った。移動体育館が行われる大会は、当時は3時間稼働可能な発電機や蓄電池の価格が高額で、電気代を節約するため14時〜16時試合開始で行われることが多かった。日本プロレスも移動体育館の導入を検討していたが、日本テレビにより却下されている。移動体育館の初使用は1970年8月6日に開催された「'70ビッグ・サマー・シリーズ」小樽大会であった。このシリーズの北海道サーキットでも多く使用され、同時に、「'70ビッグ・サマー・シリーズ」は、日本人選手用の専用バス、外国人選手用のマイクロバス、リング輸送用トラック、移動体育館設営用のレッカー車、サンダー杉山とグレート草津の自家用車の6台を連ねての巡業だった。「第3回IWAワールド・シリーズ」と「第4回IWAワールド・シリーズ」では使用頻度が多かった。一方で、通気性がなく、テント内が高温多湿であったことが災いし、マイティ井上は「農家のビニールハウスの中で試合をやるようなものだった」と語っている他、門馬忠雄は「眼鏡が曇って試合が見れなかった」と語っている。「'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ」の頃になると、移動体育館の使用は北海道限定となり、移動体育館自体も札幌郊外の倉庫に保管されるようになり、その後保管場所を埼玉県与野市に保管場所を移し、再末期は関東地方限定で使用していた。雨天時に威力を発揮した移動体育館であったが、長年の使用による悪臭による選手からのクレームや、気象予報の正確性の向上、「'78ビッグ・サマー・シリーズ」では雨天中止の際の予備日が翌日であったことなどから、1978年に移動体育館は廃棄され、その役目を終えた。豊登、杉山、草津らによる複数エース体制を経て、1971年からはストロング小林のエース体制が確立した国際プロレスであったが、1974年2月に小林が離脱し、フリー宣言を行って新日本プロレスへ転出した。これに対し、国際は契約違反として小林に違約金の支払を求めたが、東京スポーツが仲介に入り、和解金を国際に支払った上で、小林は「東京スポーツ所属選手」として新日本に参戦することで決着した(1975年より正式に新日本所属選手となる)。TBSの『TWWAプロレス中継』も1972年から変化が生じる。同年1月に放送時間が水曜19時台前半のみの30分に短縮され、さらに4月にはゴールデンタイムを外れ日曜18時台へ移動したと同時に、基本的に録画中継へと変更され、放送権料も開始当初から比べ30%減額された。この時期からネットを打ち切る局が現れた他、視聴率も10%を切る週が目立ち、1973年に入ると視聴率がさらに悪化し、『全日本プロレス中継』(日本テレビ)や『NET日本プロレスリング中継』→『ワールドプロレスリング』(NET)と比較して、『TWWAプロレス中継』は平均5%台と最下位に転落した。同年10月に放送時間が土曜午後に再び移動したことに加え、愛知県体育館や大阪府立体育館などの大会場を放送エリアに抱える中部日本放送と朝日放送における放送が遅れネットに変更されるなど、状況はますます悪化。ついにTBSは1974年1月28日の『'74パイオニア・シリーズ』岩手県営体育館大会を最後の番組収録とした上で、同年2月に『TWWAプロレス中継』の打ち切りを正式発表。『'74チャレンジ・シリーズ』開幕の4日後である1974年3月30日をもって『TWWAプロレス中継』の放送を終了した。この窮地を救ったのが、吉原功の早大レスリング部の盟友だった東京12チャンネルの白石剛達運動部長である。TBSの放送打ち切り後、吉原は白石に国際プロレスのテレビ中継を嘆願し、これが通じて東京12チャンネルは『月曜スポーツスペシャル』内での単発放送に踏み切る。初回放送として、1974年6月3日の『'74ダイナマイト・シリーズ』後楽園ホール大会が生中継で放送され、その後も2回『月曜スポーツスペシャル』で単発放送された。そして同年9月23日、『国際プロレスアワー』として、かつてNETで『NETワールドプロレスリング』を放送していた月曜20時台において、半年ぶりにレギュラー中継が再開された。レギュラー放送の復活初回放送は、『TWWAプロレス中継』と同じく日大講堂大会の生中継であった。また、全日本プロレスとの交流戦も国際プロレスの苦境を救った。もともと全日本プロレスとは協調路線を保っていたため(全日本プロレスが旗揚げする際、吉原社長は選手不足の全日本にサンダー杉山を友好トレードしている他、1972年11月29日・30日にはジャイアント馬場が国際プロレスに友情参戦)、TBSによる放送打ち切り後初のシリーズとなった『'74チャレンジ・シリーズ』は国際・全日本提携記念シリーズとして開催され、全日本から馬場をはじめ高千穂明久、サムソン・クツワダ、大熊元司の4選手が3月26日から4月10日まで参戦した(本来は4月11日まで参戦予定だったが、当日予定していた大阪府立体育館大会が交通機関のゼネストの影響で中止となったため、4月10日出雲体育館大会までの参戦となった)。さらに、1975年12月に全日本プロレスが開催した『オープン選手権』にはラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の3人が参加(外国人選手ではバロン・フォン・ラシクとホースト・ホフマンがAWAのブッキングで参戦)。1977年12月の『世界オープンタッグ選手権』にも木村と草津が国際プロレス代表チームとして参戦し、井上も高千穂明久との混合タッグで出場している。その間の1976年3月28日には蔵前国技館にて全日本との対抗戦が行われ(メインイベントはラッシャー木村VSジャンボ鶴田)、以降も1977年11月の『全軍対抗戦』、大木金太郎の金一道場を加えた1978年2月の『全日本・国際・韓国 全軍激突戦』など対抗戦形式の単発シリーズが開催された(1977年の『全軍対抗戦』には、外国人選手も国際プロレスからキラー・ブルックスとキューバン・アサシン、全日本プロレスからビル・ロビンソンとジム・デュランが両団体の前シリーズより残留参戦したが、彼らは対抗戦には出場せず、それぞれの招聘団体の日本人選手と対戦した)。1978年11月に国際プロレスが主催した『日本リーグ争覇戦』にも、ジャンボ鶴田、キム・ドク、ミスター・サクラダら全日本プロレスの選手が参加した(前年に大相撲からプロレスに転向した石川隆士は、このリーグ戦においてフリーの立場で凱旋帰国を果たしている)。吉原にとって全日本プロレスとの対抗戦は、全国ネットを持つ日本テレビに国際プロレスのレスラーが映ることで、選手の知名度を全国区にするという狙いもあったが、全日本の選手に敗れることによるイメージダウンを懸念した東京12チャンネルは反対していたという。興行力の差で営業面ではおいしいところを全日本に持っていかれたというが、それは当時の日本テレビと東京12チャンネルの力関係においても同様であり、好カードの放送は日本テレビに独占されていた(国際の主催興行であっても、ジャンボ鶴田など全日本のトップ選手との試合は、東京12チャンネルでは放送時間が制限されていたという)。1974年9月の東京12チャンネルにおけるレギュラー放送開始と同時に、国際プロレスは女子部を創設した。これに伴い戦後に存在した全日本プロレス協会に次いで、興行プログラムに女子の試合を挿入する日本で2番目の男女混合プロレス団体となった。女子部創設の背景には東京12チャンネルで中継を始めるに当たって、1972年に解散した日本女子プロレスを中継していた局側から女子プロレスを組み込んで男女並立で放送することと、毎月最終週のプロレス中継を休止し、プロボクシング中継番組である『KO(ノックアウト)ボクシング』を放送することを条件として提示されたことにある。ちなみに日女の旗揚げは国際プロレスと同じ1967年で、旗揚げ戦の会場も同じ台東区体育館だった。女子部には日女に最後まで残っていた小畑千代、佐倉輝美、千草京子が所属、外国人も日女に参戦していた世界王者、ファビュラス・ムーラが参加し、日女の実質的な後継となった。ムーラ門下生を中心に外国人選手も多く招聘した。レフェリーは男子の所属選手だった若松市政が主に担当した。最初の試合は『'74スーパー・ワイド・シリーズ』開幕戦となった1974年9月15日の後楽園ホール大会で、第4試合として千草と元WWWA世界王者、サンディ・パーカーのシングルマッチ、第6試合として小畑&佐倉組対ムーラ&ポーラ・ケイ組のタッグマッチが組まれた。テレビ局主導で始められたため、テレビマッチではいかなる場合でも女子の試合は中継された。しかし、当時はまだ男子プロレス選手及び関係者、ファンの間では女子を受け入れる風潮がなかった。これらゆえに反発も多く、現場責任者のグレート草津や、当時新日本プロレス所属だった星野勘太郎も女子部解散を『国際プロレスアワー』の解説を担当していた門馬忠雄を通じて吉原代表に求めたほどだった。さらに、日女から分かれて旗揚げされた全日本女子プロレスがマッハ文朱らの活躍により人気絶頂だったこともあり、1976年に女子部は解散した。最終試合は4月12日「ダイナマイトシリーズ」第12戦における小畑対佐倉のIWWA太平洋岸選手権試合で、小畑が勝利してタイトル防衛に成功した。ちなみに全女ではマッハが引退し、ビューティ・ペアブームが始まらんとした時期であった。国際プロレス女子部は1年半強という短い活動期間であったが、後に全女の常連外国人として活躍した選手の中にはビッキー・ウィリアムス、ジョイス・グレーブル、レイラニ・カイら国際プロレスで初来日を果たした選手も含まれている。なお、前出のIWWA太平洋岸選手権を含め女子のタイトルはすべて封印されたが、そのうちIWWA太平洋岸タッグ選手権は後にジャパン女子プロレスに持ち込まれて復活している。国際女子部解散後、男女混合団体の復活は、元全日本プロレス所属選手で前出のジャパン女子プロレスにて営業を務めた大仁田厚が1989年に旗揚げしたFMWまで13年待つことになる。現在では一般的となった選手別のテーマ曲を流しながら選手が入場するという演出は、国際プロレスが初めて採用した。選手入場時に音楽を流すこと自体は以前から他団体でも行っていた。しかし、流れる曲は放送局のスポーツテーマやマーチばかりであった。そこで『国際プロレスアワー』のプロデューサーであった田中元和は、西ドイツ遠征時にちあきなおみの「四つのお願い」で入場したマイティ井上などから意見を募り、ジャンルを問わずに各選手別のイメージに合ったテーマ曲に乗せながら入場するというアイデアを画策した。各選手別のテーマ曲第1号は、東京12チャンネルにおける最初のレギュラー中継のシリーズとなった『'74スーパー・ワイド・シリーズ』に来日したスーパースター・ビリー・グラハムのテーマに採用され、曲はミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』のサントラ曲である「Jesus Christ Superstar」であった。但し、1979年にグラハムが再来日した際は101ストリングス・オーケストラによるカバー・バージョンが使用された。その後も他の選手へも波及していったが、ラッシャー木村の場合は当初はダニエル・ブーンの「Skydiver」を使用したが、「Skydiver」はほとんど使用されず、対戦相手のテーマやIWA世界タッグ王者のテーマで入場することもあったが、最終的にはの「Rebirth of the beat」に落ち着いている。阿修羅・原のテーマ曲となった「阿修羅」は国際では唯一、オリジナルとして一から制作されたテーマ曲である。また、1980年の『'80ビッグ・サマー・シリーズ』に来日したランディ・タイラーとスパイク・ヒューバーに至っては、シリーズ後半から『国際プロレスアワー』の直前番組となったドラマ・『ぼくら野球探偵団』のオープニング及びエンディングテーマ曲のカラオケバージョンが使用された(タイラーはオープニングの「マジカル・アクション!!」、ヒューバーはエンディングの「アイム・ダンディ」で、いずれも歌唱アーティストはノヴェラ)。1974年2月のストロング小林の離脱後は、1975年からはラッシャー木村がIWA世界ヘビー級王者としてエースを務めたが、人気面では国際プロレスは後発の新日本プロレスと全日本プロレスに次ぐ第三の団体という位置付けであり、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。小林の離脱後、TBSから東京12チャンネルへテレビ放映権が移行したが、同局の『国際プロレスアワー』の放送形態は末期の『TWWAプロレス中継』同様に基本的に録画中継で、なおかつ録画中継となった場合は収録から1〜2ヶ月後の放送となることもあった他、試合の生中継や番組収録を実施する会場も1976年までは関東地方で開催された興行のみ中継され(1977年から関東地方以外で開催された興行の中継も本格的に開始)、ネット局が多く全国をほぼカバーし、全国各地の興行で実況生中継を実施していた『ワールドプロレスリング』(NETテレビ→テレビ朝日)や『全日本プロレス中継』(日本テレビ)と比べ、視聴率は伸び悩むようになり、観客動員数も減少に転じる。中でも1974年11月20日に行われた蔵前国技館大会(11月25日に『国際プロレスアワー』で録画中継)は、1階の升席に空席が目立ち(主催者発表で4500人)、国際プロレスはリングサイドを満席にし、かつテレビ中継を良く見せようと2階席の観客を1階の升席に誘導したためにリングサイドのチケットを最初から購入していた観客が抗議する事態となった。全日本との対抗戦も土曜日に行われた場合は国際プロレス主催でも原則『全日本プロレス中継』で生中継され、『国際プロレスアワー』では録画かつダイジェストでの中継となるなど、中継面でも劣勢に立たされる。また、当時は系列局を1局も持たなかった東京12チャンネルへの移行は、ネット地域を大幅に減少させることとなった。中京・関西地区ではキー局系列局で放送されず独立局での放送となり、愛知県体育館と大阪府立体育館という大会場を控える愛知・大阪の2府県では放送されず、さらに当時民放4局が所在し、なおかつ札幌中島スポーツセンター・宮城県スポーツセンター・広島県立体育館という大会場を抱える北海道・宮城県・広島県におけるネットを完全に失うなど、全国ネットで所属選手の試合が放送される新日本や全日本と比べ、マイナー感に一層拍車がかかった。また、外国人招聘ルートを高額な提携料が必要とされるAWAから、大剛鉄之助をブッカーとする安価なカナダルートに変更させた結果、外国人選手のネームバリューにおいても他団体に見劣りすることとなった(海外ルートでは、新日本プロレスが旗揚げ以来もっとも劣勢に立たされていたが、国際とAWAの提携解消と同時期に、新日本はWWFとの提携を開始し、外国人選手の顔ぶれでも国際を凌駕するようになる)。1970年代後半に始まった危機的状況を打開するために、1977年には近鉄ラグビー部(現:近鉄ライナーズ)に所属していたラグビー日本代表選手の原進(阿修羅・原)をスカウトし、ジュニアヘビー級のエースに育て上げて大々的に売り出したが、一方で、同時期より退団した選手やスタッフも相次ぐ。1977年には田中忠治が体調不良を理由に引退した他、名物レフェリーであった阿部脩も参議院選挙全国区の落選の責任を取る形で『'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ』の北海道サーキットをもって退団。翌1978年には剛竜馬が藤波辰巳への挑戦を表明し新日本へ移籍した。また、他団体との交流においても変化が発生。1978年11月25日、全日本プロレスの協力で開催された『日本リーグ争覇戦』の蔵前国技館大会に、新日本プロレスからストロング小林と小林邦明が出場し、その見返りとして、新日本が同時期に開催していた『プレ日本選手権』の12月16日の蔵前国技館大会にアニマル浜口と寺西勇を派遣。これに伴い、交流戦は全日本プロレスのライバル団体である新日本プロレスにシフトし(当時、吉原功と全日本のジャイアント馬場との代表同士の間で、何らかの金銭的なトラブルがあったことも原因とされる)、翌1979年には両団体を傘下とする日本レスリング・コミッションを設立。国際のIWA世界ヘビー級王座とIWA世界タッグ王座、新日本のWWFジュニアヘビー級王座のタイトルマッチが団体間で行われたが、この時期から経営難により給料の遅配が発生するようになり、これが元で剛竜馬が新日本へ移籍した他、鶴見五郎と大位山勝三による独立愚連隊結成のきっかけともなった。都内におけるビッグマッチは、東京12チャンネルへのテレビ放映権移行後は後楽園ホールでほとんどが行われ、蔵前国技館や大田区体育館における開催は数回にとどまった。入場人員5000人以上の大会場における開催は政令指定都市で行われるのがやっとの状態となった。交流先を全日本から新日本へ変更しても危機状況は変わらず、1980年に入ると団体を取り巻く環境はますます悪化。2月には東京12チャンネルの主導により、TBSプロレス時代にグレート東郷が獲得できなかった大木金太郎が国際プロレスに入団したが、大木への交渉を事前に知らされていなかった吉原代表と東京12チャンネルとの間に軋轢を生む形となったばかりか、大木が日本プロレス時代から保持していたインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦をNWA非加盟の団体である国際プロレスで行ったことから、かつての交流先でなおかつ日本におけるNWA加盟団体であった全日本プロレスから抗議を受けることとなった(大木は韓国におけるNWAプロモーターであり、日本プロレス崩壊後も韓国ではインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦を行っていたが、日本での主戦場としていた全日本プロレスのリングでは行われることがなかった)。さらに7月26日には、埼玉県大宮市の埼玉県道35号(産業道路)沿いにあった合宿所兼道場にタクシーが突っ込み、ガス爆発を起こし全焼する事故が発生。幸い選手は前日に『'80ビッグ・サマー・シリーズ』最終戦(札幌大会)が開催されたため北海道にいたこともあり難を逃れた。そうした中、東京12チャンネルは、10月より『国際プロレスアワー』の放送時間を月曜20時台から、かつて多団体放送時代の『プロレスアワー』や日本テレビで『全日本プロレス中継』を放送していた土曜20時台へ変更した。変更初回は滋賀県近江八幡大会の生中継で、インターナショナル・ヘビー級王座・IWA世界ヘビー級王座・IWA世界タッグ王座の3大タイトルマッチが放送された。このうち大木VS上田馬之助のインターナショナル・ヘビー級選手権試合に関しては、試合直後に大木はNWAからベルトを返上するよう勧告を受けた。その後、大木は翌11月に国際プロレスを退団し、後にNWAからのインターナショナル・ヘビー級王座返上勧告も受け入れた(インターナショナル・ヘビー級王座は翌1981年4月に全日本プロレスの王座として復活)。大木の退団は、もともと東京12チャンネルが視聴率アップのテコ入れとして半年契約で入団させたものの、それほど数字が上がらず契約が更新されなかったためであり、本人は契約の延長を望んでいたという。さらに負傷や病気による離脱も相次ぎ、1980年3月にアニマル浜口が試合中にリング下で後頭部を打って長期欠場、復帰後の翌1981年4月にも肝臓疾患により戦線を離脱。1980年6月にはグレート草津が右足首骨折で、1981年4月には若松市政も急性膵臓炎でそれぞれ長期欠場、完治後もリングを離れて営業に専念することとなった。スネーク奄美も脳腫瘍により離脱して長期欠場のまま1981年4月に死去するなど、もともと選手不足だった国際プロレスは、ますますマッチメイクに苦慮するようになる。1981年は起死回生を果たすべくルー・テーズより寄贈されたベルトを争う『ルー・テーズ杯争奪戦』を年間の柱として計画、決勝まで1シリーズ内で行う全日本プロレスの『チャンピオン・カーニバル』や新日本プロレスの『MSGシリーズ』と異なり、『'81新春パイオニア・シリーズ』に前期予選を、『'81スーパー・ファイト・シリーズ』に後期予選をそれぞれ実施し、同年秋に決勝リーグ戦を行う予定だったが、そこまで団体を存続させることはできなかった。3月には前年に全焼した合宿所兼道場の再建工事が開始されたものの、東京12チャンネルは3月28日に放送された『'81スーパー・ファイト・シリーズ』宮城県泉大会(3月24日開催)をもって『国際プロレスアワー』のレギュラー中継を打ち切った。その後も東京12チャンネルは特番枠で放送することを前提として一部大会のテレビ収録を行ったが、6月25日に行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦静岡県清水大会をもって特番枠における収録も打ち切られ、国際プロレスは重要な資金源であるテレビ放映権料を完全に失った。以降、国際プロレスは7月16日に『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を前年よりも8戦削減した全13戦の日程で開幕させた。参戦した外国人選手は同年1月に新日本プロレスに来日し、坂口征二が保持する北米ヘビー級王座に挑戦して敗れたジ・エンフォーサーをエース格とした寂しいシリーズとなってしまい、開催地も都道府県庁所在地では試合がなく東日本地区中心のローカル・サーキットとなり(西日本地区の興行は広島県における2戦のみ)、なおかつ最大で5日連続で興行のない移動・オフ日が設定され、さらには会場も屋外会場中心で、カードも6試合が組まれるのがやっとで、寺西勇・菅原伸義・冬木弘道がぞれぞれ1戦ずつ欠場するという緊縮日程となった。シリーズ後半の北海道サーキットでは、8月6日に室蘭にてIWA世界ヘビー級選手権試合(木村VSエンフォーサーの金網デスマッチ)を、8月8日に根室にてIWA世界タッグ選手権試合(マイティ井上&阿修羅・原VSジェリー・オーツ&テリー・ギッブスの金網タッグ・デスマッチ)を行いながら興行を消化。そして8月9日、シリーズ最終戦で、なおかつ1972年11月3日以来の9年ぶりの興行開催となった羅臼町の羅臼小学校グラウンドでの試合を最後に興行活動を停止した。当日のメインイベントは国際プロレスとしては最後の金網デスマッチとなった鶴見五郎VSギッブス戦であった。『'81ビッグ・サマー・シリーズ』は当初は15戦の予定で、8月11日に留萌、翌8月12日に函館での興行がそれぞれ予定されていたが、中止となったため羅臼大会が国際プロレス最後の興行となった。東京12チャンネルにおけるテレビ録画中継は、活動停止後かつ1981年10月1日のテレビ東京への局名変更直前にも行われ、同年9月16日(5月16日に後楽園ホールで行われた『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』最終戦)と同年9月23日(同年6月25日に清水市鈴与記念体育館で行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦)に深夜帯でそれぞれ放送された。しかし、『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を最後に事実上単独での興行能力を失った国際プロレスは、1981年9月30日に正式に解散を発表し、名実共に崩壊。認定タイトルであったIWA世界ヘ
出典:wikipedia
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