ラダック (Ladakh,チベット語:ལ་དྭགས་ la dwags) はインドのジャンムー・カシミール州東部の地方の呼称。広義にはザンスカールおよび、現在パキスタンの支配下となっているバルティスターンを含む、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた一帯を指し、カシミールの東側半分以上を占める。かつてはラダック王国という独立した仏教国であったが、19世紀にカシミールの藩王国に併合された。現在では行政区画の名称としては使用されていない。中華人民共和国との国境に接し、アフガニスタン北部にも近い。中国が実効支配するアクサイチンも、かつてはラダックの支配下であった。チベット文化圏に属するラダックは、よく小チベットと称されチベット仏教の中心地の一つとして有名である。文化大革命で破壊された中華人民共和国のチベット自治区よりも古い文化が良く残っていると言われる。特に曼荼羅美術の集積はチベットを凌ぐとされる。中心都市はレー (Leh)。ラダックにおける人の痕跡は青銅器時代までさかのぼることができる。その頃に掘られたと思われる岩面彫刻から、当時の人々が中央アジアの草原から来た狩猟民族であることが推測されている。この狩猟民族は今でもカザフスタンや東トルキスタンに住んでいる狩猟民族と先祖を同じくすると考えられている。また、次の移住者としてやってきたが先住民と混ざる、あるいは入れ替わる前、モン族 (Mon)として知られている民族がこの時代、この地域に住んでいた可能性もある。初期仏教は少なくとも紀元前2世紀にはラダックに伝播したと思われる。クシャーン朝時代の仏教遺跡も見出される。初期仏教はこの地域へ経てさらに東へ伝わっていく。7世紀、チベットの吐蕃王国がシャンシュン王国を併合、ラダックと西ヒマラヤ地方を支配し、チベット民族が定着してゆく。8世紀になるとチベットから流入した仏教が再び盛んになる。841年に吐蕃が滅亡すると、842年に中央チベットの豪族であったキデ・ニマゴン(Skyid lde Nyima-Gon/Kyide Nyimagon)がを建国したと伝わる。17世紀にはバルティスターン王国と同盟を結び、王の治世下に最盛期を迎えた。ザンスカールを支配下に収め、1630年には西チベットのグゲ王国を滅ぼした。1684年、チベットのダライ・ラマ政府(ガンデンポタン)と紛争が起こった結果、旧グゲ王国領域をチベットへ割譲され、ラサに朝貢することを約す。しかしチベット本国とはその後も対立が続き、その間にカシミールの諸侯が影響力を伸ばした。1822年、クルとラホール、キンナウルの連合がザンスカールを侵略し、1834年にはジャンムーのドーグラー王グラーブ・シングによってレーが陥落、1840年にはバルティスターンのスカルドゥも陥落した。シク王国の将軍ゾーラーワル・シングがドーグラー兵を引き連れ、チベットに向けて侵攻したが、チベットは1842年に講和してカシミール連合軍の侵入を阻止した(清・シク戦争)。だが、1846年にはイギリスが介入した第一次シク戦争の結果、グラーブ・シングの下でイギリス植民地のジャンムー・カシミール藩王国(1846年 - 1947年)が成立し、ラダック王国とバルティスターン王国は他のカシミール諸侯とともに藩王国の一部として併合された。(その後もラダックとバルティスターンの王家は藩王国内の一諸侯として一定の自治権を保持した。)第二次世界大戦後、カシミール紛争に伴って、バルティスターンの大部分がパキスタンの実効支配地域『北方地域』(現ギルギット・バルティスターン州)と改称され、アクサイチン地方は中華人民共和国の実効支配下となった。狭義のラダック地方とザンスカール地方がインド支配地域となり、レーに置かれたラダック自治山間開発会議がこの地域の事実上の地方政府となっている。このような激動の歴史にもかかわらず、インド連邦に対する忠誠的な姿勢のおかげで、インド支配下のラダックは8世紀から続く文化的、宗教的な遺産を失わなかった。また、貴重なチベット文化、社会、建造物が残ったのは、中国の文化大革命の破壊から守られたことも一因である。国境紛争以来、ラダックは外国人立入禁止地域となっていたが、1974年になって外国人の立ち入りが開放されて以降、多くの旅行者がラダックを訪れるようになった。1999年、。ラダックは、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間のインダス河源流域に位置し、インドでもっとも高い高山地帯の一つとなっている。歴史的に見ると、ラダックはいくつかの地域に分けられる。人口がもっとも多いのはインダス河流域である。南にはさらに辺境のザンスカール地方が広がる。北側にはラダック山地が広がり、そこにあるカルドン峠を越えるとヌブラ谷という地域が広がっている。この峠は標高5602mあり自動車道世界最高地点である。さらに北方のアクサイチン地方は中国に実効支配されている。西にはスル谷が延び、イスラム教徒が多数派でラダックで2番目に重要な都市であるがある。パキスタンに実効支配されているスカル地方(旧バルティスターンの大部分)は完全にイスラム勢力の下にあるが、広義ではこの地域もラダックに含まれる。ラダック以外のジャンムー・カシミール州はイスラーム教が支配的だが、ラダックでは仏教(チベット仏教)が支配的である。ただし、バルティスターンではチベット民族でありながらイスラム教が信仰されている。ラダック中央部やザンスカールでも、バルティスターンに近いカルギリなど西部方面を中心に、かなりの数のイスラーム教徒も住んでいる。旧ラダック王国の時代にも信仰の自由が認められていたため、レーやチョグラムサルにも古いムスリム寺院がある。ラダックには多数のチベット仏教僧院(ゴンパ)がある。有名なゴンパとしては、、、、、などがある。ダライラマの属する宗派であるゲルク派のティクセ・ゴンパは巨大で、近年その発展がめざましいものがあるが、代々の王族が菩提寺としたカギュ派のヘミス・ゴンパが一番の信仰を集めている。毎年7月頃にここで行われるツェチュ祭は観光客にも有名である。ゴンパでは極彩色の曼荼羅(タンカ)を数多く見ることが出来る。保存状態は概して良いとは言えないが、破壊を受けてはおらず、古い時代のマンダラも残存するなど手厚く信仰されている。これらの仏教美術は芸術的な価値もまた非常に高いものがある。近年、経年劣化による破損がひどいが、修復された壁画は描写がいいかげんで劣り、正確な保存、修復のための援助が期待される。仏教の信仰の篤さはゴンパの数の多さからも良くわかる。通常ゴンパには5,6歳から出家し、僧となるための修行を行う。ゴンパの中には畑や小さな牧場が備わっている所もある。僧の地位は高く、食べることには困らないが、出身の家の裕福さによって、ゴンパ内での地位も影響を受けるというのが実情である。出家した僧の住居はゴンパの近くに出身の家が負担して用意する事が多い。ゴンパには僧の他に用務員のような人もおり、僧の身の回りの世話をしている。僧の妻帯は認められておらず、農業生産性の低いこの地方の人口抑制手段であったとも言われる。中には、成人してからや老人になってから自分から求めて出家する人もいるし、成人してから還俗して結婚するものもある。ラダックにも化身ラマ(トゥルク)制度が息づいている。ほとんどの場合、ゴンパ自体は特に女人禁制ではない。インド政府は、伝統文化の保存を目指すため、ゴンパにおける少年への仏教教育を認めているが、同時に英語や科学、数学などの教育も施すために、ゴンパ内には学校が設けられ、僧籍以外の教員も教えている。チベットでは「鳥葬」が有名だが、ラダックでは「火葬」が一般的である。ゴンパの近くや村の郊外に設置される日干し煉瓦で出来た「プルカン」と呼ばれる四角い窯で死体が焼かれる。日本語を解するラダッキは、しばしばプルカンのことを「墓」と訳して教えてくれるが、日本人が言う墓とは異なり、火葬場と呼ぶのがふさわしい。裕福な家系は一族だけのプルカンを持っているようだ。プルカンで焼いた後の遺灰は集められて、高い峠で風に乗せてまかれるか、あるいは大きな川(インダス川など)へと流される。プルカン自体は墓ではないものの、葬式の1年後など決まった時期に僧を招いて法要を行う場合もある。チベタンと同様にラダッキも魚を食べず、ラダッキからはよく「一つの命を維持するためにより多くの命を奪うことになるから」であると説明を受けるが、遺灰を水に流すことによる宗教的な不浄観も理由に含まれているように感じられる。また、ラダックにはゴンパの他チベットに比べてチョルテン(仏塔)が非常に多く、チベットとの宗教観の違いが感じられる。古い王都シェイや王都レーよりも西部には、石仏や磨崖仏、仏教の線刻画も見られるが、これらはチベット系のラダック人が残したものではない。チベット仏教が隆盛を誇る以前のアフガニスタンやカシミールの影響を受けた古い時代の仏教遺物である。シェーの王宮は大きな岩山の上に建てられ、岩にもカラフルな真言が刻まれているがこれらはチベット仏教の時代のものである。ただし、一番下にある線刻の仏画はより古い時代のものでチベット仏教とは無関係だ。カシミール問題のためジャンムー・カシミール州は旅行者立ち入り禁止となっている。しかし、インド政府はラダック地方に限り旅行を解放している。カシミール紛争対策のため、ジャンムー・カシミール州にはインド政府からの補助金が大量に投入されている。しかしラダックでは、ジャンムー・カシミール州の予算が、充分配分されない事に不満を持ち、ラダック地方で独自の政策が行えるように運動を行ってきた。一時期には分離独立運動として危険視されたこともあったようだが、これらの運動は政府に認められて、現在はラダック自治山間開発会議という限定的な政府機関と議会が設立されて、独自の予算が配分されるようになった。現在独自の教科書選定など限定的な自治が認められている。ラダックは仏教徒が多く過激な分離独立運動は見られないが、カシミールに隣接している関係上、これは多分に懐柔政策の意味合いが含まれる。1970年代に入って、外国人の入域が開放されてからは、観光産業が、それまで農業による収入しかなかったラダックにとって重要な現金収入源となっている。特にヨーロッパからの観光客が多く、トレッキングは非常に人気が高い。中国とのアクサイチンの国境紛争は一段落しているものの、近年外国への進出がめざましい中国の観光客は見られない。見られるのはわずかに台湾からの観光客である。現在でもアクサイチンに近い一部の地域などではの取得が必要であり、東部を中心に開放されていない地域も存在する。なお、農業は基本的に自給的で、例外的に、チャンタンを中心としたラダック東部の高原地方で生産されるパシミナ山羊の毛織物が特産品として有名である。レーでは、観光客は「ほんもののパシミナですよ」という物売りからたくさん声を掛けられることになるだろう。近年では、インド国内でも健康食品として需要が高まっている、ラダックに以前から自生するグミ科のシーベリー(シーバックソーン、サジ)の生産に力が入れられている。レーから西部を中心に「チュリ」と呼ばれる小型の杏の生産も盛んで、生果や乾果、殻の内部のアーモンドなどが、レーの路上バザールで売られている。主な陸路はカシミールのシュリーナガルからカルギリを通り、ゾジ峠を越えてレーに至る(Srinagar-Kargil-Leh route)である。もう一つは高地を通るルートで、ヒマーチャル・プラデーシュ州 からに続く。後者の道路は雪のため7月から9月までしか通れない。最近は暖冬で5月初旬くらいから開くらしい。カシミール紛争が、インド政府にこの陸路を開かせる気を起こさせたのは確実であり、多分に軍事的性格が強い。軍事的な目的のために、意外に除雪(軍が行う)は行き届いているようだ。レーには空港が一つあり、ジェットエアウェイズ、インディアン・エアラインズ、キングフィッシャーがデリー間とシュリーナガル間に就航している。ラダックは、近年、グローバル経済の進展に対抗するカウンターデヴェロプメントの実践を目指す人達から注目されている。スウェーデン出身の言語学者ヘレナ・ノバーク・ホッジは、ラダックが外国人に開放された1974年にドキュメンタリー映画の撮影メンバーとして入域してから、一貫してこの地の伝統的な文化や自然、経済活動を守り、維持する活動を30年間にわたって続けてきた。その間ヘレナが設立したNPOは数多く、それらの団体は現在ではラダッキ自身が活動を行っている。ヘレナ自身は、イギリスに本部を置く環境保護NPO、ISEC (The International Society for Ecology and Culture) のメンバーで、現在もラダックで活動を続けている。ヘレナの著書「懐かしい未来」は日本語を含んで数十ヶ国語に訳され、環境や持続的社会に関心を持つ多くの読者に支持されている。ヘレナは2006年5月に日本に招聘され、4日間にわたって首都圏で講演活動を行った。また、ラダッキ自らが設立したSECMOL (Students' Educational and Cultural Movement of Ladakh) は、特にラダック人としてのアイデンティティーをしっかりもち、ラダックの未来を担う人材教育に力を入れているNPOで、ラダック自治山間開発会議の制定するラダック語の教科書編纂なども行っている。日本国内でラダックを支援するNPOには、ジュレーラダックがあり、2004年から現地NPOとの交流、支援、ステディーツアーなどを積極的に行っている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。