浦添 朝満(うらそえ ちょうまん、弘治7年(1494年) - 嘉靖19年11月11日(1540年12月19日))は琉球王国第二尚氏王統・第3代尚真王の長男。向氏小禄御殿の元祖。唐名は尚維衡、童名は思徳金。本来は父王尚真の世子であったが、二度にわたり廃嫡され、結局王位を継ぐことはなく、尚真王が亡くなると弟の尚清が践祚し、第二尚氏王統4代王となった。この廃嫡の理由については、最初は尚真の母:おぎやかの思惑による(後述)もの、二度目は尚真夫人である思戸金按司(華后)の計略によりそうなったとされる。いずれにしても王位継承を巡っての骨肉の争いがあり、朝満はその戦いに敗れたということであろう。なお、死後は浦添ようどれに一旦葬られるが、のちに弟の尚清王によって王家の陵墓、玉陵へ移葬された。父:尚真の長男として生まれる(母は居仁)。母は2代国王であった尚宣威の娘であり、父と母はいとこ同士の婚姻であった。尚宣威王は神託によりわずか半年で退位をしてしまった不遇の王であるが、この退位劇には尚真の母:おぎやかが絡んでいるものと推測されている。つまり自らの子:尚真を王位につけたいがために神女を巧みに利用し、退位へ追い込んだというものである。その後晴れて尚真は王位につくも、妃として娶っているのがこともあろうに尚宣威の娘であり、また第一男子を、つまり朝満をもうけてしまい、けっきょく尚宣威の血を引く者が次期王位につくことになったのである。しかしおぎやかはこれを阻止し、朝満の廃嫡に成功した。その後改めて世子となるも、再び廃嫡された朝満は岳父である呉起良・花城親方宗義の援助をうけ浦添で隠遁した。室との間に三男二女をもうけ、長女は聞得大君に就任した。また朝満の曾孫:尚寧は7代国王になった。また朝満を元祖とする向氏小禄御殿は、第二尚氏の中でも尚円王の叔父:向元輔・銘苅親方朝烈を元祖とする向氏銘苅家、尚宣威王の子:尚魏儲・越来王子朝理を元祖とする向氏湧川殿内に次ぐ古い家系であり、後世摂政・三司官を輩出していく。
出典:wikipedia
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