遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。成立は安土桃山時代にさかのぼる。別称として、廓(くるわ)傾城町(けいせいまち)ともいう。広義には、芸妓を含んだ花街(はなまち、かがい)や、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)など私娼街も含めた通称である。「廓」は「城郭」と同じで、囲われた区画を意味する語。一区画にまとめられたのは、治安を守り風紀を統制することが目的だった。近代の遊郭は必ずしも大きな物理的障壁で囲まれていたわけではなく、目印程度の境界であることもあった。その他、江戸時代に公許の遊廓以外で遊女の集まる場所に宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)(飯盛女を参照)や門前町などの岡場所(おかばしょ)があった。明治期においては、1900年に娼妓の居住地と貸座敷(遊女屋)の営業地が同一地区に指定され、この指定された公娼街を俗に遊郭と呼んだ。古代から女性による接客は存在した。平安時代には江口、神崎のように港や宿場で遊女が多く集まる地域があった。室町時代には足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収していた。権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降のことである。豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の天正17年(1589年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。1589年(天正17)に秀吉によって開かれた京都の柳原遊郭をもって遊郭の始まりとする説もある。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。江戸に遊廓が誕生したのは慶長17年(1612年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼んだ。吉原遊廓は明暦の大火で焼失。その後浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。大坂の新町遊廓、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えた。新町の夕霧太夫、島原の吉野太夫、吉原の高尾太夫などは名妓と言われ、有名である。この他にも江戸時代には、全国20数箇所に公許の遊廓が存在した。最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。鎖国の時代になると、寛永16年(1639年)ごろには西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生した。井原西鶴は『日本永代蔵』に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。この丸山を三大遊廓に数える書もあるほどで、南蛮貿易で潤った当時の華やかさがうかがえる。藤本箕山が著した『色道大鑑』(1678年序、全18巻)は、当時の遊廓25か所を列挙している。琉球時代の沖縄には、辻 (那覇市)と呼ばれる地域に尾類(ジュリ)と呼ばれる遊女を置いた遊郭があり、明治時代に沖縄県になって以降も続いた。尚真王時代の1526年に始まったといわれ、数百とあった妓楼のすべてが女性のみの手によって運営されていたという特色を持つ(明治末頃からは遊郭の集会所の事務方として男性が雇われた)。伊波普猷によると、寛文12年(1672年)に、市中の至るところにいた尾類を風紀上よろしくないという理由から集めて辻と仲島の2遊郭に収容したのが始まりで、その後、渡地にも遊郭ができたという。江戸時代の遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。明治5年(1872年)、明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、実態はほとんど変わらなかった。遊女屋は貸座敷と名称を変え、貸座敷のある区域は「遊郭」として存続した。ただし都市化の進展と共に、遊廓の存在が問題になり、郊外などへ移転させられる事例もあった。東大の近くにあった根津遊廓が深川の洲崎に移転した(明治19年)のはその例である。遊郭に反対する廃娼運動が起きる中、明治33年、内務省令娼妓取締規則が制定され、警視庁・各府県は貸座敷に関する取締規則を制定した。しかし内容は従来の取締り方針の追認で、貸座敷営業の許される地域を指定し、娼妓の居住地は貸座敷の許される地域に限るというものであった。新聞記者出身の細民研究家・草間八十雄によれば、明治33年に内務大臣の命により警保局長が遊郭新設に関する標準内規を定め、地方長官に通牒した。これにより、次の条件を満たさなければ貸座敷免許地の新設は検討されないこととなった。ただしこうした内規はあっても、実査には世論を考慮して、遊郭の新設はもとより拡張すら許可されなかったという。しかし、大阪の今里新地や市岡新地(港新地)のように、芸妓として営業する花街として設立許可を得たものの営業内容は貸座敷と変わらず、実質は新設遊廓に等しい所や、遊廓ではなく鳥取県の倉吉新地など、警察や行政の区割りでは遊廓ではないものの地元の人には「遊廓」として認識されている所もある。もちろん、これらは貸座敷指定地ではないので行政や警察の資料には遊廓としてカウントされていない。草間によれば、昭和4年12月末日における統計は以下の通り。昭和6年末で遊廓の個数は減少しないが、貸座敷営業者は9799人となり、娼妓は5万2064人、遊客は2239万3000人と、昭和4年と大差は無い。「公娼私娼の存在は文明国たる日本の恥辱」という議論もなされていた。大正12年(1923年)の関東大震災を機に当局によって「私娼撲滅」が試みられ、当局が浅草の千束町の私娼窟を潰したために、浅草全域が私娼窟のようになったとされる。そのため、私娼公娼の絶滅論は、風俗の改善が達成されなければ意味がないと夢野久作が指摘している。第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続した。昭和32年(1957年)、売春防止法が成立し、昭和33年4月1日の同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じることになった。現在公認の娼婦街はないが、表向き料理旅館に転向しつつも客と仲居との個室内での交渉を「自由恋愛」の名目にかつてと変わらない営業を継続している地域もいくつかある。大阪の飛田遊廓(飛田新地)などがそれである。また東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域同然の状態が継続している地域も少なくない。
出典:wikipedia
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