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大澤壽人

大澤 壽人(おおさわ ひさと、1906年8月1日 - 1953年10月28日)は日本の昭和時代前期に活動した作曲家、指揮者。兵庫県神戸市出身。神戸に生まれ、少年のころより独学ないし教会に通う外国人から音楽を学んだ。1930年(昭和5年)、関西学院高等商業学部卒業後すぐにアメリカに渡り、ボストン大学およびニューイングランド音楽院に入学、ピアノや作曲を学びながら作品の発表を行う。1933年(昭和8年)には日本人としては初めてボストン交響楽団を指揮する。1934年(昭和9年)、フランスに渡ってエコールノルマル音楽院に入学し、ポール・デュカスやナディア・ブーランジェに師事する。交響曲第2番やピアノ協奏曲第2番などを発表し、様々な音楽家から高い評価を得た。1936年(昭和11年)に日本へ帰国し、世界の最先端の音楽を学んだ作曲家・指揮者として活躍する。戦後はボストン・ポップス・オーケストラなどに範をとった後、自らセミ・クラシックの楽団(大阪・ラジオシンフォネット)を組織し、ラジオを通じて活発な啓蒙的音楽活動を行った。その傍らで神戸女学院大学音楽科で教鞭を執ったり映画や宝塚歌劇団などへの音楽の提供など精力的な活動を行い、1951年(昭和26年)に開局した朝日放送(ABC)の専属指揮者に就任する。ABCラジオ専属時代は毎週締め切りに追われ、多忙な日々を過ごしたが1953年(昭和28年)10月28日に脳溢血のため急逝。父親の郷里である愛媛県新居浜市に墓がある。生年については長らく「1907年(明治40年)生」とされていたが、後年の研究によって正しくは「1906年(明治39年)生」であることが戸籍謄本により確認された。ボストン交響楽団で日本人として初めて指揮した。当時の日本クラシック音楽家としては画期的な作品を多数残したが、没後50年近くたって片山杜秀と藤本賢市が楽譜を遺族宅で発掘するまで、ほとんどが忘れ去られていた。ピアノ協奏曲第3番『神風』が2003年2月3日、東京で野平一郎の独奏、本名徹次指揮、オーケストラ・ニッポニカにより、初演後65年ぶりに蘇演されたことが再評価の契機となった。作品には交響曲が3曲、ピアノ協奏曲が3曲(神風を入れて)、交響組曲「路地よりの断章」「さくらの声」「ジャズ変奏曲」「シルヴァー・イメージ」「ペガサス狂詩曲」、クーセヴィツキーに献呈した「コントラバス協奏曲」、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノ五重奏曲などがある。映画音楽や小中高校の校歌、兵庫県内の市歌なども作曲した。結局、自分の書きたいような作風の楽曲をなかなか作ることが出来なかった大澤は戦後にラジオ、映画、宝塚歌劇団などの音楽、レビューを担当する仕事が多くなったとされる。しかし、作曲活動自体を停止したわけではなく「サクソフォン協奏曲」や「トランペット協奏曲」「ジャズ変奏曲」など大澤の好みである濃厚なジャズの響きが特徴の作品を書いている。つまり、大澤は時代の環境に合う作曲活動を展開していきながら、かつ自分の欲求を搾り出していったことになる。ラジオの面では歌曲集「ABCホームソング」を書き、ポピュラー音楽の作曲家として、当時の日本人作曲家の水準を遥かに上回る技術と才能を示した。本分である器楽作品の面で「交響曲第4番」を作曲しようと構想していたらしく、楽譜の表紙のみが遺されているが、譜面に音符が書かれることはなかった。大澤の作品には「さくら」というキーワードの作品が多少みられる。代表的な作品としては、「交響曲第3番」、ソプラノと管弦楽のための「さくらに寄す」、ピアノと管弦楽のための「さくら幻想曲」がある。これらの作品では、日本古謡「さくら」が用いられ、モチーフとして扱われたり、全体を占める主題として扱われたり、変奏されたりする。

出典:wikipedia

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