月岡 貞夫(つきおか さだお、1939年5月15日- )は、日本の男性アニメーション作家。宝塚大学教授。日本大学芸術学部映画学科講師。新潟県豊栄市(現:新潟市北区)出身、新潟県立新発田商工高等学校(現:新潟県立新発田南高等学校)建築科卒業。NHK『みんなのうた』の『北風小僧の寒太郎』、『おかあさんといっしょ』の『こんなこいるかな』、東映動画のテレビアニメ『狼少年ケン』などで知られる。佐藤順一、片渕須直、安藤雅司など多くの人材を育成した。新潟の実家は映画館を経営し、幼少時から映写室にあるディズニーのフィルムを一コマずつ見て動きを研究していたという。小学校の頃から漫画家の手塚治虫と文通するという早熟さで、1958年に高校を卒業すると上京して手塚のアシスタントとなる。翌1959年に手塚は東映動画でアニメ映画『西遊記』の製作に参加したが、途中から多忙な自身の代わりに貞夫と石ノ森章太郎を助手として東映動画へ派遣した。この現場で貞夫は東映動画への入社を希望し、東映動画スタッフの白川大作が身元保証を引き受けてアニメーターとして入社した。貞夫の作画スピードとうまさはすぐに社内で注目を浴びて、「天才アニメーター」が貞夫の代名詞となった。入社してからも引き続き担当した『西遊記』では動画のクレジットながら、実際には原画も任され、大塚康生によると牛魔王が三蔵法師たちを捕らえて宴を繰り広げるシーンの一部が長編作品での初原画だったという。『わんぱく王子の大蛇退治』では、大塚とともにスサノオによる大蛇退治の原画を担当したが、「たいてい一度で動感と臨場感にあふれたカットを仕上げていました」「(分担が自分よりも少なかったが)中身では彼(貞夫)が数段優れていたと思います」と大塚は著書に記している。手塚の虫プロダクションによりテレビアニメの時代が幕を開けると、貞夫は自ら志願して東映動画にオリジナル企画を提出。東映動画のテレビアニメシリーズ第1作は貞夫が原作と監督を務める『狼少年ケン』ということになった。この背景には、貞夫が手塚や虫プロのスタッフと親交があり、虫プロの作った『鉄腕アトム』の制作ノウハウを熟知していたという事情があった。 1963年、24歳のときだった。しかし作画スピードの速さを誇る貞夫でも週に1本のペースでの制作を1人で賄うのは不可能となり、やがて各話ごとに作画チームを組んでローテーションで制作を分業する制度が取り入れられた。その矢先、放映が始まって3ヵ月後の1964年2月に東映動画を退社。テレビシリーズのノウハウがない当時は、各話の演出を統括する総監督制度がなく、作家性の強い貞夫にはそれが耐えられなかったのではないかと大塚康生は述べている。東映動画退社後は、虫プロで1965年に『W3』、1966年に『リボンの騎士』のパイロットフィルム、1967年に『フライングベン』のパイロットフィルム、『悟空の大冒険』に関わった。1965年には東映動画時代の後輩である林静一ともにアニメ制作会社・ナック(現・ICHI)の設立に参加して、日本テレビ『すばらしい世界旅行』のアニメーション部門の作画なども行なった。1970年に短編アニメ『新・天地創造』で、ポーランド・クラクフ国際短編映画祭グランプリを受賞、国際的なアニメーション作家になり、この年より『みんなのうた』に登場している。以後の貞夫はテレビアニメに関わることはあったが、管理できる範囲の短編作品やCMが主であり、自主製作の個人アニメーション作家として自らの作家性を満足させる道を歩んだ。1978年には東京ムービーの藤岡豊が海外に通用する長編アニメーション制作のために設立したテレコム・アニメーションフィルムのアニメーター採用と初期の養成を担当。採用者の条件として「既成アニメに毒されていない、できればそれまでにテレビアニメなどを見たことがない人」を挙げていたという。貞夫がテレコムを離れた後に養成を担当した大塚康生によると、貞夫は養成期間中に「君たちは"長編アニメーター"である、テレビアニメなどやるべきではない」と指導し、大塚が着任したときには、新人たちは技術がないのにテレビアニメの関係者を見下すような態度を見せていたという。大塚は外部から招聘したベテランアニメーターの力も借りて新人の教育を実制作を通じて改めておこなうことになったが、この点について大塚は、貞夫が「長編アニメーターを育ててほしい」という藤岡の要請を忠実に実行して自らの願望を託しただけで、その方針自体に責任はないと述べている。1963年1965年1966年1967年1969年1979年1987年1989年1994年年数不明
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。