フランス海軍(フランスかいぐん、フランス語:Marine nationale、"MN")はフランスが保有する海軍。第二次世界大戦での教訓から独自の軍事体制を維持しており、戦略核や空母などを保持している。また、海外に植民地があることから、小型の艦艇を警備用として太平洋・インド洋・カリブ海などの海外領土に展開している。海軍司令部はパリの総司令部、ブレストの大西洋艦隊司令部、トゥーロンの地中海艦隊司令部及びシェルブールの英仏海峡小艦隊司令部が存在する。フランス海軍は王室との伝統的な結びつきにより"La Royale" ("the Royal")として親しまれてきたがイギリス海軍に代表されるヨーロッパ諸国の海軍のように王室に関わる称号を戴くことはなかった。モットーは "Honneur, Patrie, Valeur, Discipline" ("名誉、祖国、勇気、規律")。これらの言葉は海軍のどの艦船のデッキにも刻まれている。19世紀においてフランス海軍はイギリスによる制海権の優位に対抗するため、砲弾・装甲艦・潜水艦等軍艦における技術革新を主導した。開国後の江戸幕府は幕末における緒戦においてフランス式近代軍備を整えるために、フランス人軍事顧問団を受け入れて軍制改革を行っており、陸路で将軍自ら出陣した第二次長州征討では、一部が洋装を纏った幕府軍兵士が京の都へ東海道を進軍して行ったが、禁門の変などでは薩英戦争以後英国式軍備と用兵を徹底していた薩長連合に敗れた。明治維新後の明治政府は、初期の日本海軍力整備として松島など数隻のフランス製軍艦を発注し、戊辰戦争で函館に至るまで抗戦した旧幕府海軍の残存艦も、可能な限り再利用する事とした。またエミール・ベルタン(Emile Bertin)技師が大日本帝国海軍に招聘された。第一次世界大戦への参戦により外洋活動が可能な駆逐艦が不足したため、1917年に駆逐艦の受託建造協定を日本と結び、12隻を発注した。日本では樺型駆逐艦の武装を変更した艦を建造、受領したフランスはアラブ級駆逐艦として1936年頃まで配備していた。第二次世界大戦開戦当初、フランス海軍は連合国側として枢軸国相手に参戦し、ノルウェーの戦いでは軽巡洋艦「エミール・ベルタン」を旗艦とする大型駆逐艦6隻、汎用駆逐艦5隻、補助巡洋艦6隻、潜水艦13隻を投入してナルヴィク上陸を支援した。しかし、ドイツ陸軍の侵攻速度が連合国軍の予想を上回り、上陸作戦を中止し、連合軍を北フランスから撤退させる作戦などに参加しフランス海軍は駆逐艦以下小型艦30隻と舟艇20隻を持ってフランス軍よりも先に撤退を開始するイギリス軍を送り届ける活動を行った。イタリアの参戦後はイタリア海軍への備えとして仏領アルジェリアのメルセルケビール軍港に高速戦艦「ダンケルク級」2隻を擁する第1艦隊(第1戦艦戦隊、第4巡洋艦戦隊、第2軽戦隊および空母ベアルン)を待機させ、旧式ながら有力な火力を持つ戦艦「ロレーヌ」をアレキサンドリアに派遣した。イタリア参戦時にはトゥーロンに第3艦隊(第1巡洋艦戦隊、第2巡洋艦戦隊および第3軽戦隊)、アルジェに「プロヴァンス級」2隻の第2戦艦戦隊と巡洋艦戦隊2隊があり、他に仏領チュニジアのビゼルトに潜水艦戦隊6隊が派遣されていた。イタリア空軍が1940年6月12日にビゼルト港を空襲し、トゥーロンを夜間爆撃を行ったため、フランソワ・ダルラン元帥の立案でトゥーロンの「アルジェリー」以下重巡洋艦4隻と駆逐隊3隊が第3艦隊司令長官中将の指揮の下出撃し、連合軍に先駆けてイタリア本土の砲撃(ヴァード作戦)も行った。だが、フランス降伏により大部分をドイツ海軍の手の届かない本国以外の植民地にフランス海軍の艦艇を待機させたが、そのうちの主力の一部はドイツの手に落ちることを恐れたチャーチルにより、1940年7月、アルジェリアのメルセルケビールにおいてイギリスの攻撃を受けた(メルセルケビール海戦)。一方、イギリスのポーツマスとプリマスにあった弩級戦艦クールベ級「クールベ」「パリ」にサフィール級潜水艦「リュビ」など7隻と駆逐艦10隻、舟艇約200隻があったが、これら艦艇は7月3日にイギリス海軍により武装解除され、乗員は陸上に隔離された。物資輸送の途中、マルティニークにあった航空母艦「ベアルン」と軽巡洋艦2隻は現地で抑留された。一方、アレキサンドリアのフランス艦隊は主砲を向ける英国艦隊の前で水兵達が戦争で汚れた甲板磨きを行うパフォーマンスで場を和ませ、英仏艦隊司令長官同士の話合いにより平和裏に武装解除が行われた。これらの海外に展開していたフランス海軍は武装解除を受けたが、後に自由フランスを旗揚げしたシャルル・ド・ゴールの指揮下に入り、6月28日にミュズリエ提督の下、「自由フランス海軍(FFNF)」として再編成された。戦艦「クールベ」には軍港の防空を担うために自由フランス海軍の人員が配置され、宿泊艦兼練習艦となった。その中でいち早く活動を開始したのは駆逐艦以下の小艦艇で、船団護衛や沿岸哨戒任務や枢軸軍への通商破壊任務を行った。小艦艇の数に不足していたイギリス海軍にとっては後方を任せられる戦力が増えるのは歓迎すべき事であった。連合国として本格参戦後はフランス本国のドイツ要塞陣地やヴィシー・フランス側に付いた植民地への攻撃を行った。その中で最大の活動は9月に行われたダカール攻略作戦で、ヴィシー政権側に付いていたダカール艦隊を無力化すべく、主力はアンドリュー・カニンガム提督率いるイギリス海軍で、自由フランス海軍は植民地通報艦「ブーゲンヴィル級」3隻と武装トロール船数隻が参加した。一方、ヴィシー・フランス海軍側には未完成戦艦「リシュリュー」の他、軽巡洋艦3隻、汎用駆逐艦3隻、通報艦6隻、潜水艦3隻が戦力として存在していた。両者が激しく戦いあったが決着が付かず、上陸作戦は中止されイギリス海軍の戦略的撤退となった。この戦いでヴィシー・フランス海軍のイギリスへの不信感は最悪のものとなった。一方、自由フランス海軍はこの戦いでヴィシー側を勢い付かせないために11月には仏領ガボンを攻略。現地のヴィシー・フランス海軍の通報艦1隻を自由フランス海軍側の同型艦が沈めた。1941年春にはイギリスの支援を受けて仏領ソマリア解放作戦が実施され、自由フランス海軍の通報艦2隻が輸送船団を護衛した後、ジブチに進出して海上封鎖を行った。この折に仏領マダガスカルから出撃した潜水艦からの攻撃を受けたが双方に被害は出なかった。この時の潜水艦は1942年5月にイギリス軍がマダガスカルを攻略した時に、補助巡洋艦1隻と通報艦1隻と共に潜水艦3隻が撃沈された。ヴィシー・フランス海軍側もその後は何もしていなかった訳ではない。1941年6月のイギリス軍のシリア・レバノン侵攻においてシリアベイルート戦隊司令のピエール・グートン少将の指揮の下、大型駆逐艦2隻と潜水艦3隻を使い、仏潜水艦が英軽巡洋艦「」を攻撃して未遂に終わるも、大型駆逐艦2隻がオーストラリア第七師団を艦砲射撃にて攻撃し損害を与えている。この損害に慌てたイギリス地中海艦隊は水雷戦隊を派遣するも逆にJ級駆逐艦「ジェーナス」「ジャッカル」が返り討ちに遭い大破させられてしまった。この損害に業を煮やしたカニンガムは植民地海軍の艦艇を次々と引き抜き、ついにはドイツ攻撃を行っていた基地航空隊を動員してまで駆逐艦狩りを行なう羽目になったが、費やした労力に反比例してイギリス軍は結局この2隻を撃沈することは適わなかった。ヴィシー・フランス海軍は1942年11月のトーチ作戦の際にも果敢にイギリス海軍やアメリカ海軍と交戦した。カサブランカでは未完成の戦艦「ジャン・バール」が米戦艦「マサチューセッツ」と砲撃戦を行った。しかし、ジャン・バールは乗員の多くを陸戦隊として回していたばかりか2基の主砲塔のうち1基のみしか載っていない状態で戦闘を行ったため、マサチューセッツに撃ち負けて大破してしまった。また、軽巡洋艦プリモゲや駆逐艦もカサブランカから出撃したアメリカ海軍と交戦したが大きな損害をだした(カサブランカ沖海戦)。この戦いのち、ダルラン元帥は連合軍代表アイゼンハワーやカニンガムと協定を結び、北アフリカのフランス陸海空軍は連合国側と協力して枢軸群と戦うことを約束した。しかし、ドイツを通さずに勝手に交渉した行為に激怒したアドルフ・ヒトラーは報復としてヴィシー・フランスに進駐、ドイツは数的にまだドイツ海軍と互角の大型艦を持つヴィシー・フランス海軍艦隊を接収せんとトゥーロンに戦車隊を差し向けた。だが、ドイツ軍が到着する直前の1942年11月27日に、ヴィシー政権下のフランス艦隊は、旗艦「ストラスブール」からの号令の元、トゥーロン港において一斉に自沈した。これにより戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦32隻、潜水艦16隻、水上機母艦1隻、小艦艇18隻が無力化し、枢軸側にわたるのを防いだ。ドイツは一時の癇癪によって地中海西部を守護していた戦力を失ったのである。その中でドイツが手に入れられたのはドックで修理中の駆逐艦4隻で戦車隊により鹵獲された。一方、12月18日にビゼルトに侵攻したドイツ陸軍は同地に停泊していた潜水艦9隻と小艦艇5隻を捕獲した。だが、枢軸側の不手際により自由フランス海軍側に脱出する艦艇が続出し、1943年の時点で自由フランス海軍の戦力は戦艦3隻、航空母艦1隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦13隻、潜水艦19隻、小艦艇95隻を数えるまでになった。総勢4万人の規模となった自由フランス海軍は戦闘で消耗した艦艇の修理と近代化改装を行い、戦力化とすることだった。ダカール沖海戦で損傷したリシュリューはアメリカに回航され、ニューヨーク海軍工廠で完工工事を行なった後、連合側海軍には希少な速力31ノットを出す高速戦艦の1隻として参入、1944年4月には対日作戦に参加するためイギリス海軍東洋艦隊と合流した。その他の自由フランス艦隊の主任務は依然として船団護衛や沿岸哨戒、港湾防備であった。1943年のコルシカ奪還作戦は自由フランス軍主導で行われ、軽巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」以下軽巡洋艦2隻、大型駆逐艦2隻、駆逐艦2隻、潜水艦3隻が上陸作戦に参加し、巡洋艦や駆逐艦による艦砲射撃によりドイツ軍陣地を撃破、自由フランス陸軍の活躍によりドイツ陸軍は白旗を揚げ降伏し10月4日にコルシカ島を解放した。続いてノルマンディー上陸作戦において自由フランスからは軽巡洋艦1隻と駆逐艦戦隊を参加し、巡洋艦と駆逐艦はオマハ海岸を艦砲射撃。ドイツ側の沿岸砲の被害に遭うのを恐れて射距離を取って砲撃する米英蘭艦隊とは違い、自由フランス艦隊は逆に砲台の弾が届かんばかりに接近し、精度を高めた砲撃は次々と沿岸砲台を返り討ちにして同地の上陸作戦を成功に導いた。南部フランスのプロヴァンス上陸作戦には約50隻を参加させた。駆逐艦以下の小艦艇には輸送船団の護衛に徹し、戦艦「ロレーヌ」を初めとする巡洋艦8隻は陸上砲撃支援任務に就いた。トゥーロン奪還作戦は8月28日に終了し、4年ぶりの帰還を祝う長さ50mのペナントを引く自由フランス艦隊が凱旋したのは9月13日の事であった。同地で地中海艦隊が編成され、巡洋艦5隻、駆逐艦6隻と小艦艇多数により南仏沿岸からジェノバまでの哨戒任務、いまだ残るドイツ軍陣地への艦砲射撃、機雷処分任務に就いた。大西洋方面ではドイツ軍占領地解放のため、戦艦「ロレーヌ」を旗艦とし、重巡洋艦「デュケーヌ」以下でフランス機動部隊が編成された。その活躍によりフランス沿岸部は順次、解放された。第二次世界大戦後は戦勝国として扱われたものの、国土が戦場になった事でフランスは国力を消耗していた。また、江戸時代から明治にかけてはイギリスと並ぶ艦艇製造技術を持っており、日本の江戸幕府が幕末に初めての砲艦を発注したのもフランスであった。しかし普仏戦争から第一次及び第二次世界大戦にかけて幾度となく国土が大戦争の舞台となり、陸軍力編成を優先せざるを得なかった事もあり、独自の造船技術を会得した上でいち早く空母の有効性に着目した日本海軍や、日英同盟下で日本の手本となったイギリスのように戦間期にかけて海軍先進国ではなかった為、この時期に太平洋地域におけるフランス海軍の活動は極めて限定され、唯一例外的にサイゴンの仏領インドシナ政府に所属していた艦艇が、現在のカンボジア地域の領有権を巡ってタイ王国海軍と交戦したのみである。この泰仏国境紛争はタイ王国の同盟国として仲介に入った日本によって停戦した為、結局第二次世界大戦終結までに日仏両国の間で海戦が行われることはなかった。第二次大戦後のフランスは、長年の宿敵であった隣国ドイツが東西に分裂した事で、逆にロシアに対する緩衝地帯として機能していた東欧地域を失い、西ヨーロッパ地域におけるソビエト連邦の脅威に対する反共の防波堤としての役割を担わざるを得ない状況に置かれてしまった。1950年代に西ドイツが再軍備し、NATOに加盟するまでは地政学的に東西冷戦の最前線に置かれ続ける事になったフランスには、ミサイルの時代に入った水上艦艇を独自開発する時間もなく、当初はアメリカやイギリスの戦時急造艦を中心に供与を受け海軍が再建された。1960年代に入り国産艦艇で代替を開始し、クレマンソー級航空母艦やシュフラン級駆逐艦などを建造し、搭載する艦載機やミサイルなども国産化が進められ、エタンダールIV攻撃機やマズルカ艦対空ミサイルなどが開発された。核武装も行われ、原子力潜水艦とそれに搭載する潜水艦発射弾道ミサイルも国産化され、アメリカとイギリスが主導するNATOとは距離を置き、フランス独自の防衛政策を進めた。独自路線は今でも続いているが、他方では他のヨーロッパ諸国との共同開発にも熱心である。現在行われている共同開発としては、イタリアと共同開発中のホライズン計画によるフォルバン級駆逐艦、イギリス及びイタリアと開発したPAAMSなどがある。ユーロファイターの共同開発が決裂して、独自に開発した戦闘機が、シャルル・ド・ゴール搭載機のラファールである。戦略原潜は6隻から4隻に削減されたものの、空母は、原子力空母シャルル・ド・ゴールに次ぐ2隻目をイギリス海軍に提案したクイーン・エリザベス級航空母艦の準同型艦として建造する案が進められている。但し、空母については建造が決定しておらず、フランスの大統領選挙の結果によっては、計画が変更される可能性も存在している。更新時期の迫っている対潜任務を担う水上戦闘艦は、ほぼ同数による更新計画が進行している。FREMM計画によって、2017年までにトゥールヴィル級駆逐艦、ジョルジュ・レイグ級駆逐艦、デチエンヌ・ドルヴ級通報艦の合わせて18隻中17隻を更新する予定であったが、予算不足により11隻へ削減されている。ニコラ・サルコジ大統領によって、2009年にフランス軍をNATOの軍事機構へ復帰させると発表した。また、数年かけてフランス軍を45,000名削減し、小規模でも装備の充実した機動性の高い軍隊に再編成する。海軍も削減の例外ではなく、核戦力は最優先で保持されるが、フリゲートは18隻程度に削減される。NATOの共同作戦を重視した戦略に切り替えるとともに、EU加盟国の海軍艦艇を持ち寄り空母を中心とする部隊を編成する事を提案している。多くの植民地が独立したが、現在も旧植民地や海外県へ利権を持っているフランスは、警備用の艦艇をそれらの地域に常駐させている。冷戦の終結と増えつつある低強度紛争への対処の為、それらの艦艇は従来からの対潜警戒任務よりも、海上から陸上への戦力投射を重視した運用へ切り替えている。アメリカのフロム・ザ・シー戦略の小型版といってもよい。ラファイエット級フリゲートとフロレアル級フリゲートは20~30名程度の特殊部隊のためのスペースがあり、搭載するヘリコプターも任務により対潜ヘリコプターと汎用・輸送ヘリコプターを積み替えて運用する事が出来る。大規模な部隊の正規戦よりは対テロなどの非正規戦への対処能力が向上している。旧式のデチエンヌ・ドルヴ級通報艦はFREMM計画によってアキテーヌ級駆逐艦の対地型で代替される予定。アキテーヌ級駆逐艦にも同様に特殊部隊用のスペースが確保される。海軍の全般組織は国防法によって規定される。1991年7月14日の政令第91-871号により成文化されて以降は、以下の5つを基本軸として各種運用がなされる。2007年現在現役兵約46,200人、文民10,300人が所属。軍事作戦については統合参謀総長の下で指揮され、海軍参謀総長はその補佐に当たる。以下の組織は海軍参謀総長の責任の下で管理される。士官は、将官は4階級であるが准将を置かず、代わりに中将と大将の間に上級中将が置かれている。上級中将は英米式の階級制を採用している国では、中将に相当し、中将と少将はそれぞれ少将と准将(代将)に相当する。制度上海軍大元帥となるAmiral de Franceが存在するが、1869年のフランシス・トマ・トレウアール以後の就任例は無い。また、海軍元帥となるAmiral de la flotteもかっては存在したが、フランソワ・ダルランただ一人に授与されたのみであった。佐官・尉官は3階級、その下に士官候補生(Aspirant)と海軍大学学生(Élève-officier)が存在している。下士官は、上級3階級、下級2階級の計5階級。但し最上位のMajorは准尉と見なされるため、実質的には4階級である。その下に海軍学校学生(Maîstrancier)があるが、これは兵の最高階級と同一の扱いとなり、兵長相当である。兵は3階級、但し最下級のMatelotが厳密には2種に区分されるため実質4階級である。(フランス軍の階級も参照の事。)ロング島については潜水艦基地であるが統合参謀本部戦略海洋部隊が管理する。2011年6月現在。『Jane's Fighting Ships 2011-2012』より。歴代艦艇については「フランス海軍艦艇一覧」を参照。2011年6月現在。『Jane's Fighting Ships 2011-2012』より。(生年順)
出典:wikipedia
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