趙 爾巽(ちょう じそん)は清末民初の政治家。養子に入って漢軍正藍旗人となったが、祖先は盛京(現在の遼寧省)・鉄嶺の人。字は公鑲、号は次珊。清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功し、後世の史家をして「最も革命の遅れた地方」と言わしめた。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。弟に清末のチベット攻撃などで有名な趙爾豊がいる。著作には『刑案新編』・『趙留守攻略』等がある。清朝では制度上、地方官の地元への派遣は腐敗の恐れありとして制度上行っていなかったが(本籍廻避)、趙爾巽は家柄は養子先の漢人八旗であったため盛京将軍・東三省総督に就任が可能であり、そこで生家である満州族の人脈を生かして活躍した。盛京将軍に就任した時期は、義和団の乱とそれに引き続くロシアの東三省占領、さらに日露戦争に伴い行政組織や地域そのものが非常に混乱した中にあった。しかし趙は馬賊の帰順を促すなど治安の維持に力を注ぎ、さらに東三省へなだれこんでくる漢族流民への農地を確保し、財政を安定させる(領域内の収支を黒字にもちこんだといわれる)ことに成功した。また、辛亥革命時の動乱期には、帰順した元馬賊の張作霖を活用して革命派を弾圧し、東三省の治安維持に成功するなど実務家としても非常に優秀であった。ただし、趙の取った政策が満州族の故地であった東三省の漢地化をさらに促進することともなってしまった。晩年は『清史稿』編纂に携わるなど学者としての側面も見せるが、動乱の時局が充分な校正時間を許さず、完成した『清史稿』には年号・人名等の誤りが多いと言われている。また、『清史稿』そのものも趙爾巽死後に発生した清史館の内紛によって流転の運命を辿る事になった。
出典:wikipedia
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