高句麗論争(こうくりろんそう)とは、かつて朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという帰属をめぐる論争。また、韓国・北朝鮮の研究者は、698年に建国した渤海の支配層が高句麗人であり、そのため渤海は高句麗の継承国であり、北の渤海・南の新羅が鼎立した南北国時代から、高麗によってはじめて朝鮮は統一したと主張しており、したがって、韓国・北朝鮮の研究者が称しているところの高句麗の継承国の渤海が、「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという論争もおきている。河上洋によると、高句麗は様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会であったという。矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮・衛氏朝鮮などが楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進む一方、北から高句麗が朝鮮に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南の韓族もそれに対抗して国家形成を進めたが、それが新羅と百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、高句麗と同様に自らを扶余の系統に位置づけた。最終的に新羅が朝鮮初の統一国家となり、「朝鮮民族の歴史的・民族的な枠組みを定めた真に画期的な出来事であり、それによって今日につながる韓国・朝鮮の人々の『民族』としての枠組みがはじめて確立したといっても、決して過言ではないであろう。」と述べる。朝鮮を一つのまとまりとする国家や社会が成立したのは新羅の統一以後であり、朝鮮史は南の韓族による北進の歴史であり、現在の韓国の歴史学界が自明視する韓民族(朝鮮民族)という概念は、新羅の統一以後に段階的に形成されていった歴史的産物であり、高句麗にそのまま適用できない。それゆえ高句麗は「中国史」か「朝鮮史」かという二者択一は、「近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争」と断じる。不毛な論争を止揚するために、民族意識・領域意識が不変のものではなく、変わり行くものであり、一国史的観点からの脱却を唱える。高麗を建国した王建は、朝鮮の統一を進めるために女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために自ら高句麗の継承者を標榜し、高句麗にならって国号を高麗とし、北進政策を推進する。しかし、高句麗・高句麗人継承意識は高麗だけでなく渤海人や女真人にも受け継がれていた。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである。」と述べる。19世紀後半になると朝鮮人が間島や沿海州などに移り住むようになり、朝鮮が清に対して間島の領有権を主張する。1885年と1887年に朝鮮は清と国境画定の談判を行うが、領有権主張は受け入れられなかった。大韓帝国は、再び間島の領有を目指すが、日本による外交権接収によってその計画は頓挫した。1909年の日清間における間島協約や1962年の中朝間における中朝辺界条約においても間島に対する領有権主張は受け入れられず、これに対する不満は、国境画定に直接関与できなかった南側の韓国で顕著であり、このような不満が中国と韓国による「高句麗論争」の素地になった。外山軍治と礪波護は、高句麗は満州東部から朝鮮半島北東部に移動した貊族の一種であり、その貊族はツングースであるため「半島の南西部を領した百済、東南部を領した新羅と半島を三分しているが、高句麗は他の二国のように朝鮮民族の国ではない。」と述べている。そして、先住地はもっと西南方であり、その住地の関係から「蒙古系遊牧民の混血」が生じたとしている。黄文雄は著書で、「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている。また、黄は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている。金光林や井上直樹は両国の論争について、一国史的観点から脱却して東アジア史として捉えていく必要性があると述べている。また金は、高句麗は複数の民族・種族から構成された多民族国家であり、高句麗の故地の大半は唐が支配し、一部を新羅が支配した。高句麗人は唐によって中国内地へ移住させられ唐に吸収されたが、一部は新羅に吸収された。しかし、多くの高句麗人が故地に残り渤海・遼・金などの諸王朝に吸収され高句麗人を継承した。中国の研究者が高句麗の「中国史」への編入を強調するのは、高句麗の故地が現代の中国に存在しており、高句麗人の多くが中国の民族に吸収されたこと、韓国・北朝鮮の学界が古朝鮮の領域を中国東北にまで拡大していることからくる中国東北に領土的野心を持っているという警戒感、現代の領土を統合する中国の多民族一体論が挙げられる。一方、韓国と北朝鮮にも過剰な民族主義史学観、単一民族国家観が存在しており、韓国と北朝鮮において高句麗を中国との独立性を強調するあまり高句麗が中国の歴代王朝と密接に交流していた事実を軽視するのも問題とする。武光誠は、「高句麗は騎馬民族の流れをひく国である。かれらは中央アジアと共通の文化をもっており、高句麗の支配層は満州族であった。のちに清朝を立てる人びとと高句麗とは系譜的につながっている。満州族は、あるときは中国の支配下におかれ、あるときは渤海、遼などの独自の王朝のもとにまとまり、近代にいたった。」と記述している。松本雅明は、「満州族(夫餘の一派)が独立して、高句麗を建国した。」「その王族は夫餘高句麗と同じく満州族」「北部から北朝鮮にかけて、満州族の高句麗がおこり」と記述している。奈良本辰也編集『日本歴史大辞典 第19巻』河出書房、40頁、1959年には、「北方鴨緑江流域から南下しきた高句麗(満州族)のために滅ぼされた。」との記述がある。藤田亮策は、「満州族たる高句麗人の馳駆する」「其文化は漢、晋、六朝の夫れをうけ高句麗は満州人によって建てられた最初の大国である。」と記述している。夏川賀央は、「中国国東北部に住んでいた女真族は、朝鮮半島の高句麗や、満州の渤海、華北に進出した金など、たびたび国家を建国してきました。」と記述している。南出喜久治は、「高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であって、韓民族の民族国家ではない」と述べている。室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている。倉山満は、「満州で建国した古朝鮮を受け継いだ高句麗と渤海は満州を支配した東アジア最大の国家だった(申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』p4)」とお国自慢をしているが、現在の北朝鮮の領域の先祖であるかつての朝鮮北部と満州を支配した民族がKorea民族なのかは疑問であり、高句麗は朝鮮北部と満州を領域としており、満・韓・漢のどの民族であるかなど完全に区切ることはできず、「韓国人は平気で、高句麗や渤海を朝鮮民族に分類し、日本人も言われるままに信じています。しかし、高句麗も渤海も満州人です。より正確に言えば、満州から現在の極東ロシアや北朝鮮までに広がって混住・混在・混血している人たちです。少なくとも純粋Korea人でないことだけは確かです。中韓の間で、高句麗は中国か朝鮮かという歴史論争がありますが、どちらでもないが正解です。今我々が住んでいるところに昔住んでいた人たちの領土は、我々のものだという思想を、ナチズムと言います。現在の国境からさかのぼって過去の歴史を考えてはなりません。」と批判している。また渤海を「渤海(のちの満州人)」として、「唐は渤海(のちの満州人)との対立と新羅の謀反で日本どころではなくなります。ついでに言うと、韓国人はこの渤海の歴史も韓民族の歴史に組み込んでいます。渤海の侵略を防いだり、渤海の栄光を誇ったり、忙しいのが韓国人の歴史観です。」と批判している。横田安司は韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している。戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。また戦後、満鮮史観を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている。東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、高句麗が中国との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない、と述べている。現在の日本の教科書では、高句麗は中国史でもなく朝鮮史でもなく、東アジア世界という地域史として扱われるが、「高句麗や渤海といった古代国家を現在どの国の歴史と見なすかは、複雑な問題だ」という記述の教科書もある。田中俊明によると、3世紀朝鮮半島の高句麗・沃沮・濊・韓の諸民族が併存しているの様相だけでも、朝鮮半島内の民族が同一民族とは考えられず、そのような意識も存在しなかったという。特に高句麗と韓は、およそ同種とは考えにくく、百済には、始祖が高句麗王から分派した、高句麗と同じ扶余から出た、という百済・高句麗の同源・同族意識を主張しているが、それを歴史的事実とする必要はなく、百済は韓族であり、高句麗とは異民族であり、例えば、広開土王碑には、百済から獲得した領土や人民を「新来の韓濊」と記述しており、高句麗は百済を韓族と認識していた。高句麗による民族識別は晋代にも残り、中国からの「晋率善濊伯長印」「晋率善高句麗仟長印」の印面を拒否しなかったこと、高句麗が扶余を領土を奪取した際に、「北扶余守事」を派遣したことから、高句麗による扶余支配は異民族統治であったという。また、中原高句麗碑には、新羅を東夷と表現しており、新羅王は寐錦の王号で称され、百済王は主と称されており、広開土王が自らの陵を韓・濊から徴発して守らせるように遺言しており、高句麗王の世界観では、新羅・百済を同族と意識することはなかったという。一方、広開土王碑には、百済・新羅・伽耶・東扶余と倭・稗麗が区別されていることを以て、高句麗と百済・新羅・伽耶・東扶余を同族と認識していたという主張があるが、区別自体が明確ではなく、それが同族認識とどのように関連するのか分からず、分かるのは高句麗が百済を異民族の韓族と認識して属民とみなす認識だけであるという。戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉、箭内亙、松井等、稲葉岩吉、池内宏、津田左右吉、瀬野馬熊、和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海等は「満州史」の一部である(ただし、高句麗は朝鮮史の一部でもある)という認識をしていた。 今西龍は、「而して特に注意すべきは檀君は本来 、扶餘・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶餘の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず」と述べている。また、稲葉岩吉は「兎に角三国時代の三分の二は満州民族が此の領土に移住して当時の文化を植付けて居ったということは争われない」と述べている。朝鮮総督府の朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はがほとんど収録されていない。その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史の一部と認識されていたためである。 朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は、「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している。今西龍は1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している。また、戦前刊行された朝鮮通史である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない。執筆した稲葉岩吉は、高句麗人や渤海人や女真人といったツングース系満州民族である高句麗と百済を韓族である新羅が統一したと認識していた。
出典:wikipedia
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