チーフテン (FV 4201 Chieftain) は、イギリスで開発された第二次世界大戦後第2世代の主力戦車。「チーフテン」は「族長」もしくは「酋長」の意味で、イギリスで「Chieftain」と言った場合、特にスコットランド高地氏族をはじめとする大英帝国隷下の族長や酋長を指す。チーフテンは、主力戦車であるセンチュリオンとその支援用重戦車コンカラーの両車を統合するという目的で開発が始まった。冷戦が激化する中、西側諸国の戦車は対戦車ミサイルや歩兵用携帯対戦車火器の発達により、「装甲防御力を強化するより機動力を高めて攻撃を回避する方が得策である」という設計思想の基に開発されるものが多数を占めていた。そのような潮流の中、イギリス陸軍は装甲防御力を犠牲にして機動力を強化する思想にはかつての巡航戦車の失敗から懐疑的であったため、乗員保護の観点からチーフテンにはかなりの重装甲を持たせた。主砲もコンカラーの120mm戦車砲を搭載することが要求されたが、巨大すぎて搭載が難しかったため、新型のL11A5 120mm戦車砲を搭載した。この砲は分離弾薬方式で弾頭と装薬が分離しており、装填手の負担を軽減するように配慮されていたが、結果的に発射速度は低下してしまった。サスペンションはセンチュリオンと同じホルストマン方式のものを採用し、整備性と実用性を重視していた。エンジンはL60対向ピストン式6気筒多燃料液冷ディーゼルエンジンを搭載していたが、このエンジンは構造が複雑で信頼性に欠けていたため、後の改良で一般的なディーゼルエンジンに換装された。チーフテンは1963年から本格的に生産が開始され、改良を続けながら1970年代初頭まで量産された。その後も装甲や火器管制装置の改良が加えられ、後継のチャレンジャー1が登場するまで、NATO軍の第一線で運用された。チーフテンは出現当初、時代の潮流とは異なる重戦車的な性格が強い戦車であったために注目を集め、ソビエト連邦軍はチーフテンの攻撃力と防御力の高さを非常に恐れていたという。特に冷戦期NATO軍の一員として西ドイツに駐屯するイギリス陸軍ライン軍団(British Army of the Rhine:通称「BAOR」)にセンチュリオンから更新配備された本車は、充分な抑止力として機能した。チーフテンはイラン、ヨルダン、オマーン、クウェートなどの中東諸国に採用された。イラン仕様車であるシール1は、後にチャレンジャー1開発にシフトされるシール2計画の開発ベースにもなった。シール1は元々イスラエルとの間で共同開発を決めて契約したが、イギリスの中東政策の変更で契約は反故にされ、試験購入された2輌以外は導入されなかった。この後、イスラエルは主力戦車の独自開発を行い、本車と同様の設計思想の下にエンジンを前方に配置するなど、本車以上に乗員の生存性を重視したメルカバを誕生させた。イランの出資により開発が続けられたシール1はイラン革命により契約がキャンセルされ、結局はヨルダンが「ハリド」として採用した。イラン軍のチーフテンは、イラン・イラク戦争にてアメリカ製のM48パットンやM60パットンなどと共にイラク軍のT-54/55、T-62、T-72などと交戦した。防衛に転じたイラク軍は平地を冠水させて湿地化するという戦法を採用し、イラン軍のチーフテンはその重量のために苦戦することとなった。この時、複数のチーフテンが鹵獲され、イラク軍によって使用された。また、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻した際には、クウェート軍がイラクの侵攻に対する準備を整えていなかったため、クウェート軍のチーフテンはまったく活躍できず、大半がイラクに鹵獲された。クウェート侵攻の翌年の湾岸戦争において、これらの元イラン軍及びクウェート軍のチーフテンは大半が破壊された。目立った戦果の無いまま退役した本車は、朝鮮戦争や中東戦争で活躍したセンチュリオンと湾岸戦争で活躍したチャレンジャー1との間で影が薄い存在であるが、防御性重視と120mm砲搭載という第3世代主力戦車のスタンダードを先取していた点では評価できる。
出典:wikipedia
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